台湾の神社の跡 旧東港神社⛩️
台湾の南部に位置する港町、東港。
高雄からバスで小一時間で行ける上に、日本とそん色ないレベルの寿司・刺身が食べられるとあって、日本人観光客も多く訪れる場所である。
一見、日本遺産とは無縁なこの漁港、無縁どころか日本と深い縁があるのである。
台湾シーフードの殿堂、東港魚市場から歩くこと南へ15分、現在は小学校となっている片隅に、戦前には「東港神社」と呼ばれた神社があった。
東港神社は昭和10年(1935)10月18日に鎮座し、ご祭神は天照大神、大国主命、そして「台湾で神になった男」こと北白川宮能久親王など。
日本統治時代後期の「皇民化政策」や鎮座数年後から始まった支那事変などにより存在感が増し、一般参拝客も増えたという。
また、港町という性質、そして地政学的にも南方防衛の拠点の性格もあいまって、敗戦前年の1944年(昭和19)に讃岐の金刀比羅宮の祭神である大物主神も分祀された記録がある。
第一鳥居があった所と思われる入り口をくぐった先には、本殿まで長い参道が続く。
写真で見ると短そうだが、実際に歩いてみると意外に長い。200メートルはあるだろうか。それだけに、一地方の神社といっても境内はかなり広かったと容易に想像できる。
現在孔子廟が建っているこの場所には、かつて本殿が鎮座していた。本殿下のコンクリート台は当時のままである。
本殿跡には日本風の灯篭が何基か並んでいるのだが、これは日本統治時代のものではなく、戦後、しかも台湾が民主化し公的にも「日本」がフリーになった1990年代以降(1993年まで公的な場での日本語や日本時代称賛は禁止)のものである。
何にしろ、「神社」だったという歴史を重んじて「日式灯篭」を奉納してくれる地元の人には感謝に堪えない。
旧境内には、「昭和11年」と書かれた当時の献灯と玉垣が残る。
玉垣には「金壱千円也」の文字と、おそらく神社建設の寄付者であろう、台湾人の名前が刻まれている。真ん中は「台湾製糖株式会社」となっており、両隣に比べ字が薄いのは日本の会社だから戦後に少々削られたのだろうか。
建立当時の1000円と言えば、当時の東京や大阪の喫茶店のコーヒーが一杯15銭(0.15円)、東大卒の高級官僚の初任給が100円、そして台南では贅沢しなければ25円で夫婦二人が暮らせた額。おいそれと出せる額ではない。
寄贈者の「李開山」は総督府の役人として地方行政に携わった人物で、のちに実業家に転身し、「李南精米株式会社」を開いた人物である。
昭和10年頃だと地元の名士として羽振りが良かった頃だと思うので、金壱千圓くらいはどうということなかったのだろう。
しかし、左端の「金弐千円也」の寄贈者の名前が「蔡糞」とは…。
「昭和十一年十二月」と刻まれた献灯も残っている。献主は葉建○(○は字の判別不能)という人物で、○南市会議員でもあったらしい。
○はやはり判別不能だが、これは「台南」で正解であろう。
上の写真の右端に写る神橋、実は現在でも一部が残っている。
地面はコンクリートで埋められてしまっているが、欄干はその痕跡をとどめている。
この東港神社、1970年代まで本殿も含めて戦前のままで残っていたという。
が、1970年代の「日華断交」で怒った蒋介石により、「日本建築破壊令」なるものが布告。それにより神社の多くが取り壊された。
日本統治時代からの建築、日本の敗戦から中華民国の台湾占拠の間のどさくさに起こったとされるが、調べてみると神社仏閣に限っては1970年代の「蒋介石のお怒り」のことが多いようである。
東港神社も例外ではなく、1973~74年頃にすべて取り壊すことになった。
が、その整地が本殿にまで及んだとき、重機が突然原因不明の故障を起こしたり、施工者が倒れたりバイクが謎の故障を起こしたりした。
これを「祟り」だと感じた地元民は取り壊しを中止、本殿を孔子廟にリフォームする程度にとどめた。
正殿跡の基礎なども、工事中止の上に残った遺構なのである。
=東港神社の場所=
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?