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29歳-30 商才とパッケージ化

 坂口恭平と千葉雅也の対談を動画で見た。彼らは創作者であり、商人であり、したたかな野生という感じがあった。パッケージ化してしまう大事さが説かれていた。自分の創作物をお金に換算し、それを人によって値段を変えて売るというところまで、すごい商才だと思った。虹のあるところに市ができる室町時代の話をして、そんな感覚なんだと言っていた。坂口さんは特に、ちょっと長めの対談で、質問コーナーになると少し飽きが来たのか一瞬、無の表情をしていたのが、底のない闇のようなものが映ったようで、怖くなった。千葉さんはだいたいいつでも自分自身もパッケージ化できてしまっているような雰囲気。Twitterも額縁があるからいいらしい。小分けされて売りだされているとは、確かにその通りかもしれない。
 何か作って例えば賞をとりたいなら、審査員の一人の好みを調べてハマるように作る、というのはやっぱり買ってくれる人を見越して作る、という商才だ。千葉さんの論文投稿の話もそう。坂口さんが毎日書いている、というは、意味なく書いているというよりパッケージ化して売り出すとこまで見越しているようだ。
 翻ってこの日記はどうだろう。一応、一記事ずつ分かれていて、写真がある。
 思い出したのが、小山田咲子さんのえいやっと飛び出すその一瞬を愛してる、だった。彼女は売るとこまでは考えていない。思ったことをものすごい感性で書いている、だけ。
 noteはすごくて、書いているものをマガジンにまでできてしまうけど、例えば、こうやって書き溜めたものを、自分用に、あるいは興味を持つかもしれない家族や友人用にフィジカルで作ってみる、というのは悪くないかもしれないと思った。彼らなら、印刷屋はどこで、どのくらいの値段がかかって、誰に話をして、というのがすぐ浮かんでくるんだろうな。
 Jacob collierの1500強の曲が追加されたプレイリストをだいたい聴いて、自分のリストに加えてみた。今は O show tem que continuar を聴いてみる。Show should be contined みたいな意味だろうか。Jacobの作っている曲は、これら1500余りの曲にちょっとずつ似ていて、彼の音楽性がこれらの曲と共に育まれてきたのがわかる。ベースの亀田さんが、またこれもほぼ日に出ていて、自分でFM亀田と称して、ヒットチャート40を毎週作っていた、その時に聞いていた数千曲が頭のなかで今も鳴っている、というのは、なんだか坂口さんたちの話にも似ている。好きなことを自分で最後の媒体まで含めて手作りで作ってしまう、ということの大切さ。彼はまた、病気で家にいた少年時代の3ヶ月間、レコードを自分で選びかけ、それが自分ヒットチャートにつながり、家に来たギターでベースラインをひくことを始めた。だからたぶん自分がもし、ドキュメンタリーが好きで、好きな作家がいるなら、撮りたいものがあるなら、自分で作ってしまって、パッケージ化して、もし賞に出したいならそれを研究してから作るし、じゃなければどこにどう売るのか考えて作る、ことが必要なんだろう、という当たり前の気づきがありました。MattyがInstagramのフォロワーを増やし、自分のフィルム写真のプリントを販売しているのも、そういう意味で商才があるなあ。
 本田の言葉というので、一度きりの人生、好きに生きろ、というのがソーシャルメディアで出てきた。昨日Andyとの面談で彼の好みで色々と直す部分を言われたけど、それに従うのも従わないのも私の自由だし、手を動かしてみて、総合的に判断して決めたいと思う。自分の感覚が大事だし、世代があまりにも違うとパートナーも言っていた。確かにAndyの作ったものは本当に面白いか私にはピンとこない。大英帝国の植民地主義的な思考回路からいまだに抜け出せていないところがあって、それはもはや彼ら世代の病気だと感じた。
 眠れない夜に、パートナーとの映像を見ていて、私の春望の朗読に外国語みたいだと大笑いする姿があって、これほど面白い日常生活はないと思った。

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