グレタ・トゥンベリが私に考えさせたこと これからの正義とは何か

初めての投稿を、どんな内容にしようか、数か月ほど悩んできました。

私は今、日本人学生の留学支援を行っています。
そんな中で、私の体験が何かの役に立つのではないか、と思うことが何度かありました。私の失敗や、うまくいったことなど、少しでも留学に興味のある人に届いて、問題の解決の糸口になれればと思ったんです。

しかし、実はそろそろ書きたい内容も整理できてきたとき、グレタ・トゥンベリのストライキを耳にしました。彼女の行動、主張を様々な場面で見ることが増え、私自身も考える時間が増えました。そして、どうしても、私には答えの出せなかったことがあります。

これから書くことは、彼女を批判することでもないし、誰かを否定することでもありません。
私が「何かを選択する」にあたって、「その選択は本当に正しいのだろうか?」と考え続け、この問題の根が、私たちの生活の非常に奥深くにまではっていることを強く感じたこと、そして、最終的に私ができることは何かをひたすら考え続けるというものです。

答えはきっとありません。

私たち一人ひとりが、納得できる答えを見つけることしかできないと思います。そして、私たちはお互いを認め合わねばなりません。その存在や、意見や、気持ちを。
ここでは「答えを出すこと」ではなく、私自身の答えを出すまでの思考と葛藤をみなさんにも考えていただきたい。そんなつもりで、書きました。

前置きが長くなりました。

グレタ・トゥンベリの話題が増えてきて、私が真っ先に思い出したのはセヴァン=スズキでした。当時12歳だった彼女が、大人たちを前に訴えたこと、その話を聞いたときの衝撃は忘れません。

さて、彼女のスピーチはいつの話だったでしょうか。
1992年です。
あれからもう27年が経ちました。

何が、変わったでしょうか。

『ファクトフルネス』という本が数ヶ月前に話題になりましたが、その本を読む限り、私たちが思っている以上に、世界は悪い方向へは進み続けてはいません。前向きに進み、改善したこともあるようです。

では、私は、何が変わったでしょうか。
あなたは、何が変わったでしょうか。
私たちは、何が変わったでしょうか。
何を、変えてきたでしょうか。

残念ながら、私は、今でも市販の安いシャンプーを使うし、肉も食べるし、モノを消費し続けています。
きっと環境に悪いものも、垂れ流し続けています。
汚れていく水、大気、死んでいく生き物、自然、地球。
私の目には、それは日常的に映る景色ではありません。

最近になって、これでいいのだろうか、と思うことが多くなりました。
答えはNO。だけれど、変えられることはなかなか見つからなかった。

私は全世界のすべての状況を知っているわけではありません。
残念ながら、大人の気持ちもわかってしまうようになってしまいました。

物質主義社会は今後どこまで続いていくのでしょう。
モノが飽和し、持っているモノでステータスが決まるような状況にはウンザリしていますが、無くては生きていけなくなってしまったモノがあるのも事実です。
この世界には“過剰”がたくさんあります。

過剰をなくせないこと、労働者の行方、見えない圧力。
そういったことをたくさん、考えてしまうのです。

例えばヴィーガンのように、動物性のものを食べないと決めたら。みんながそうしたら、家畜は減るかもしれません。
ウシは温暖化の原因の最たる例なので、減れば環境に貢献できるかもしれません。
けれど、健康を第一に考える私にとって、バランス良く食べることは、欠かせない考え方の一つです。
(ヴィーガンの方は栄養に偏りが出るために、サプリメントで栄養を補うそうです。)
私はきっと肉を食べないことはないと思います。
しかし、もし、家畜を減らすのだとして、その産業を営んできた人たちはどこへ行くのだろう、と思うのです。

環境にやさしい製品は、手に取りやすい価格ではないことも多いですが、それよりも、環境にやさしいはずの製品が、海外から輸入されているものだとしたら?
その輸送で排出されたCO²は環境にやさしかったのでしょうか。
私が市販の、もしかしたら環境によくないものも手にするのは、時間やお金が環境に良いものを選択し続けるのに十分ではないからです。
しかし、だからといって許されることでしょうか?私には、わかりません。

グレタの話題が出てからというもの、しばらく経ちましたが、その間、たくさん考えました。
どういう行動が世界を変えられるのだろう、と。
そして、私たちを変えられるのだろう、と。

わからなかったんです。

誰かが、今の世界の誰かは、きっと犠牲になってしまうのかと思うと、それが正解なのか、わからなかったんです。

これは、『これからの正義の話をしよう』、に似ているかもしれません。

これからの未来を生きる人々と、今を生きている人々の、どちらを犠牲にするのか。
たくさんの人が環境問題に、物質主義社会に真剣に取り組んでいることは事実です。
しかし、私たちの多くは、環境に依存し、物質に依存しながら生きています。すべてを一瞬で変えることはできないでしょう。
そして何かを変えれば、誰かが犠牲になることは事実です。
今だって何かの犠牲になっている人が少なからず存在しているのだから。

アマゾンの森林の消失もつい最近のことですが、その森林をなくすことで未来は失うかもしれません。でも、今目の前にいる人は助かるかもしれません。
どちらを選択するのか。難しい問題だと思います。
私は、森林を田畑にすることでどれだけの人がどの程度救われるのか知りません。

環境と経済、物質主義社会は根深く私たちの生活に染みついています。

12歳の少女が世界に訴えました。16歳の少女も、訴え、そして多くの人々の共感を得ました。
素晴らしいことです。世界の人々が問題を問題として考える機会を作り出したこと。間違っていると思うことを素直に言えること。
彼女たちの行為は称賛に価すると思います。

それが、大人たちの恰好のコンテンツとして消費されないために、私たちは何をすべきでしょうか。
彼女たちが訴えることの本質を私たちはより深く考えなければなりません。
世界は彼女たちの言葉だけでは変えられません。
何度も私たちは思い起こさせられなければ、忘れてしまうんです。

これを良い機会として、本質的には持続可能でないものを、環境のために良い、と謳うモノが溢れることもあるでしょう。
その時に私たちは、そもそも物質主義にならないことや経済に惑わされないように立ち返らなければいけません。

世界をどう動かすか、私の生活をどう変えるのか。
そのすべての選択において、恐ろしいことに見えない力が働き、私たちは惑わされます。
本質はもっと難しいものです。モノを買わなければいいわけでもなく、動物を食べなければいいのでもない。

一人ひとりが持続できる選択をし、今の生活を少しでも環境に良いものにするために行動することが、ひとつの方法なのではないでしょうか。

私たちの生活は、モノに依存しなくてもとても素敵になるだろうと信じています。
例えば人とのつながりを持つことによって、自然と触れ合うことによって。
みなさんがこの機会にたくさん考えたことそのものが財産だと思っています。そしてみなさんの選択が少しでも環境に寄り添うものになったのなら、それはとても素晴らしいことです。
願わくば、私よりももっと大きく、たくさんの物事を動かせる大人が大きな一歩を踏み出すことを願って、初めての投稿を締めたいと思います。

稚拙な文章でしたが、最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。
そして、こうしたことを考える機会をくださったグレタ・トゥンベリに敬意をこめて。

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