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特別な言葉で紡がれる小説_『ここはとても速い川』井戸川射子

0、小説を深く愛する人が、泣き出した小説


井戸川射子『ここはとても速い川』(講談社)

2021年の野間文芸新人賞を受賞された作品なのですが、選考会のとき保坂和志さんがこの作品の良さを語っているうちに泣いてしまった、というエピソードがSNSで流れてきました。

いい小説なんて死ぬほど読んでるだろう人が、小説を深く愛してるだろう人が、泣き出すような、それも読んでる時でなく語りながら泣き出す小説って、どんな小説なの?!

と気になり手に取ることになりました。

保坂さんの投稿はこちら

読む小説を選ぶための諸々。小説は、漫画やアニメみたいにパッとみて惹きつけるものを持たないから、こういう、小説にまつわるエピソードはきっかけとして大きいですね。

1、秘められた熱、世界との折り合い


施設で暮らす小学校高学年の主人公・集(男)と同じ施設で暮らすひとつ年下のひじり(男)のなんとはない生活。淀川で亀を見つけ、餌をやって懐かせようと話し合ったり、近くのアパートに侵入したら勤労大学生のモツモツの部屋にお邪魔させてもらうことになったり、三人で秘密の大仕事を達成したり。施設で行く夏の林間学舎、集と祖母、ひじりと父親との邂逅、不穏な行動をする妊娠中の正木先生、家庭のある学校の同級生たちとのやりとり、そして別れ。

そうした日常の諸々が集の喋り言葉と思考を形成する大阪弁で綴られていく。

施設で暮らす、つまり、色んな事情で家族と暮らせない小学生が、大人たちの皺寄せを背負わされている。娘を失い老人ホームで暮らす祖母、精神病を患う父、女として生きる不安が飽和したまま臨月を迎える正木先生、教育実習生たちの戸惑い、同級生の親から同級生へ伝播した価値観。けど、それらは安直な憐憫や同情、問題提起とも全然違うやり方で描かれる。

シートン動物記は観察が多いのに、昆虫記になると虫は実験ばっかりされてまう、小さい方は不利やろうな。(P41)

井戸川射子『ここはとても速い川』(以下同じ)


主人公・集の小学生にしては可哀想なくらい冷静な視線。けれどその中には、諦めや計算とは違う、自分の人生を生きたい、というまっすぐな熱が秘められている。自分ではどう扱っていいのか分からないまま、幼い一人の人間の中で、渦巻いている熱。

物語の終盤に園長先生にこの熱を一気に吐き出すシーンがある。

「集は優しいな」と言って園長は俺の頭を撫でた、髪の毛があるから深くまでは届かへん。そういうことではない、とも俺には今何が説明できたんやろう、とも思った。それで終わってしまって俺はそのまま、塩を撒いたみたいに光る地面を見ている。(P83,84)

井戸川射子『ここはとても速い川』

この本にはもう一作『膨張』という、アドレスホッパーをしている女性が主人公の小説も収録されているんだけど、この主人公も、男性や恋人たちから心ない不誠実な扱いを受けて傷ついたり、うまく返せなかったりするんだけど、井戸川作品の何がいいかって、主人公たちがちゃんと、「それは違う」という信念を深いところで持っているところだと思う。こんな言い方をしたら元も子もないのだけど、主人公たちが陽キャというかネアカというか。悪口みたいに見えたら嫌なんだけど、本当にいいなと思っている。

世界の中で、ここにすでにある『私』がどうやって生きていくのか。
この単行本に入った二つの作品は、そこに、応援するような優しいスポットライトを照らしている。

2、特別な言葉でできた小説

そして井戸川氏は詩人だということで、やっぱり言葉がすごい。
気に入っている箇所をいくつか。

いつもみたいに毛布は丸めて犬みたいにして、お腹の上で抱いて寝る。(P20)

大人はしゃがんどっても安定してるな。(P39)

近くの唇は寝てる時でも笑ってるみたいにカーブしとって、人と接するのに便利そうやった。(P55)

病院は大きい森で、自分では動かされへんもんやと改めて思った。(P58)

よしいちの家はちゃんと本物のレンガが積んであるマンションやもんな。(P66)

こういう時こそ、犬みたいなもんを抱いて寝るべきなんやわ、と思って起き上がり毛布の角から合わせて畳んで、端から巻いていった。(P70)

リボンはかかっとったけど、俺には特別でも何でもないもんやという手つきでパッケージをはがす。(P88)

よく「自分の言葉で話しなさい」という人がいるけど、「自分の言葉」ってなんだろう、と、ずっと謎だった。
この小説の言葉を読んでると「あ、これが自分の言葉だ」と感じる(多分「自分の言葉で話しなさい」ていう人が想定してるものとは全く違うと思うけど)。

こう感じるにのは、主人公・集の設定が大きい。
集は、まだ子供で常識や既成概念になじみ切っていないうえに、無条件に信じられる親を持たない。だからといって受け身だったり、完全に周りに振り回されているわけでもない、自分の意思を持つ一個人として描かれている。

純粋な自分の言葉、を持てる稀な存在。年齢や状況設定も含めて、極めて危ういバランスで、集の存在は成り立っている。そういう意味で、集の言葉はとても特別なんだと思う。そしてそんな集が綴った言葉で、この小説はできている。

3、最初の読みにくさは、最後に最大の魅力になる

先にも少し触れたけど、この小説は全編を通じて小学生の主人公・集の書いたノート、という体裁をとっている。

ひじりのとは違ってこのノートは、夜に思い出してまとめてるから俺の言葉に変えてしまってることも多い。

同じ施設で暮らす集とひじりは、それぞれ日々のことを書き留めている。
ひじりは、事実をできるだけ正確に記録するために客観的な言葉を紡ぐ。一方、集のノート、つまりこの小説は、ある事実に一定の時間経過と、集のフィルターがかかった主観的な言語が紡がれている。

特に、句読点の位置を正しい文法とは違う位置に置くことで、言語の主観性(話し言葉的、とか思考的言語とかのニュアンスかもしれない)が効果的に引き出されている。

「また洗うてる」後ろからひじりがのぞき込んできて「乳歯はもっとねばっとったらええのにな。大人の歯でいる時間が長過ぎるわな」と返す、何で大人になると循環せんようになるんかな。(P04)

この家の流しからは、玉ねぎのにおいがよくしてくる、ベランダのない側の部屋やから、カーテン掛けるところに毛布干してる。(P61)

いろんな人が、自分とちょっと似た子供を生んで、きっとそうや。(P81)

読みはじめ、私も苦戦したし、Amazonのレビューにもそういうのがあって、でもなれてくると、集の思考の流れを追っているようでとても楽しくなってきて、これじゃないとダメ!になってくる。
だから、最初辛くても、とにかく寄り添いながら読み進めてほしいと切に願います。


中原中也賞受賞の詩人が書いた、初小説。とても素晴らしい小説でした。読めてよかったです。

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