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1-1ある高架下の男 (西 昇)

田舎者が「自分は都会に住んでいる」と感じるその瞬間を、この数年僕は幾度となく経験してきた。
地元では一時間に二本か三本だった電車の轟音に表情を変えなくなったとき。
千葉の地元には出店のない、かつて憧れたハズの有名チェーン店を見てもあまり心が踊らなくなった瞬間。
商業施設を歩く有名人とすれ違っても、振り返ることもなく「あぁ、あの人テレビで見たことあるかもなぁ」としか考えなかった瞬間。
電車の乗り換えが怖くもなんとも無くなって、家をギリギリに出ることが増えたと感じた時。
あとは、電車で向かいに座った美人をいちいちジロジロと眺めることもなくなったな。
そもそも、来たばかりの頃はまだ券売機で切符を買っていた……。

………それでもまだ自分が都会の人間になりきれていないと思う理由が、一つだけあるとしたら、
高架下の「うま牛」の横を通るたび、高校の部活帰りの空腹感を思い出すこと。そこで牛丼をお腹いっぱい食べたい、といまだに思ってしまうこと。

都会が都会たりえるのは、きっと金を持った人間がそこに大勢いるからなのだ。全員が同じ程度の暮らしをしていては、そこは田舎と変わらない。とすれば、金を持った人間の対極にいる自分は、あるべくしてそこにあることになる。そういう意味では、間違いなく自分も都会を構成している1人なのだ。
毎朝一駅自転車を漕いで、そこから電車に乗って毎月定期代の1000円を節約しているような自分は、いつまで経っても"気軽に"牛丼を食べる日なんて来ないのだろう。
そこのサラリーマン、そんな不機嫌そうな顔をして食べるなよ、せっかくの牛丼を……。どうせ「牛丼"で"いいや」と思っているんだろう?僕は牛丼"が"いいと思って生きてるのに…。それも、もう2年くらいずっと。

自炊は楽だ。牛丼だって、きっと買うより安く、しかも多く作れるに違いない。…というのは本当なんだろうか。実際に作ったら、買うよりもっと高くつくんじゃ?牛肉も米も高いぞ?光熱費だってかかるぞ?…そんなことを思っているうちに、「牛丼」そのものが、どんどん僕の中で高級品になっていく。
こんなに貧した毎日を送っているのに、携帯は去年の9月にでた最新型を一丁前に使っている。何をやっているんだ、僕は。
結局のところ、牛丼が至上の憧れである時点で、僕はずっとガキで、貧乏なままなのかもしれない。牛丼"が"いいと思ってくれる性格のいい女の子、どっかに居ないかなぁ〜〜〜。。。。

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