第77回天皇杯全日本サッカー選手権大会

チャンピオンシップでは、ジュビロ磐田に2連敗してしまい、リーグ連覇を達成できず。

チャンピオンシップの表彰式が、ピッチに入ってきた観客によって妨害された様子が、全国中継されてメディアに取り上げられて騒ぎに発展しました。

そんなどん底な状況下から、休む間もなく天皇杯に突入していきました。

1997年12月15日(月)
JリーグAwards(@横浜アリーナ)

ジョアン・カルロス監督やスタッフ、そしてベスト11候補の選手達を誘導のため、チームバスで横浜アリーナへ向かいました。

2日後には、天皇杯3回戦がおこなわれる為、終了後は鹿嶋へすぐに帰る為に、チームからの要望があって、チームバスを使うことになりました。

この夜は、皆さんご存知のように、アキ(秋田豊選手)、直樹(相馬直樹選手)、ビス(ビスマルク選手)がベスト11、そしてヤナギ(柳沢敦選手)が、新人王に選出されました。

チャンピオンシップに勝っていれば、全員で参加できたけど、それが出来なかったのは、本当に残念でした。

チームバスに同乗した時に、選手達からは異口同音で「天皇杯は絶対に優勝する!」という言葉が出てきていて、チャンピオンシップから気持ちは切り替わっていたのは、心強かったでした。

1997年12月16日(火)
クラブハウスにて、試合前日の軽めのトレーニング。

トーナメント大会の時には、PK戦のトレーニングもおこなっていました。サドンデスも想定して、全員が蹴っていました。

トレーニングの最後は、恒例のハーフコートでのツータッチゲーム。必ずジョアン(・カルロス監督)は、選手に混ざって加わっていました。

1997年12月17日(水)
天皇杯3回戦(@カシマ/6,941人)
鹿島 4-1 順天堂大
[鹿島]マジーニョ、増田忠俊、ジョルジーニョ、ビスマルク

カシマスタジアムでの試合でしたが、チャンピオンシップから気持ちが完全に切り替わっているのか、疲労もあって正直心配でした。

順大は、負けて元々の気持ちで、伸び伸びとプレーしていて、エースFWにはスピードがあり、翌シーズンからジュビロ磐田加入が内定している川口信男選手がいて、内心冷や冷やしていたけど、不安を払拭する4ゴールを挙げて、ラウンド16進出を決めました。

再始動は上々のスタート。

1997年12月18日(木)
試合に出場した選手は、リカバリーのみ。ジョギングとストレッチをおこなって終了。

試合に出場しなかった選手達で、通常トレーニング。試合出場している選手が負傷したら入れ替わってもらうだけに、こちらの選手達も変わらぬモチベーションを維持してもらわないと困るけど、みんな意識高く臨んでくれていて、そんな心配は不要。

1997年12月19日(金)
午前中にクラブハウスでトレーニングを終えて、明日の福岡戦の試合会場となる鹿児島へチームと共に移動。

年末になると、ブラジル人選手はクリスマスを母国で迎えたいから、天皇杯は集中しづらいなんて、各クラブの関係者が口にすることがあるが、今回に関しては、「早くブラジルに帰りたい」という言葉が、全く出てこないし、雰囲気すら感じない。

天皇杯獲得への並々ならぬ気持ちを感じる。

1997年12月20日(土)
天皇杯ラウンド16(@鴨池/3,018人)
鹿島 6-0 福岡
[鹿島]マジーニョ②、柳沢敦、ジョルジーニョ、秋田豊、長谷川祥之

3回戦で、ヴェルディ川崎に2-0で勝利したアビスパ福岡と鹿児島県の鴨池競技場で対戦。

この日の鹿児島市は、この時期にしては珍しく朝からかなりの雨が降っていて、雨中での試合となった。

今回の遠征メンバーには入っていなかったけど、ヒラ(平瀬智行選手)のご両親が、試合前にスタジアムを訪ねてきてくれました。

試合は、ピッチコンディション関係なく、終始福岡を圧倒して、6-0の大差で勝利しました。

試合途中に、福岡の選手が「駄目だ!敵わない」と、大きな声をあげたのが、凄く記憶に残っている。

1997年12月21日(日)
Jユースカップ(@カシマ)
鹿島Y vs トリプレッタ
昨日は試合を終えて、その日のうちに鹿嶋に戻りました。

チームは、2日後に準々決勝なので、午前中はリカバリー。

私は、午後からおこなわれるJユースカップの準備があるから、リカバリーが始まってすぐにスタジアムへ移動。

この頃のユースは、来シーズンからトップ昇格するソガ(曽ヶ端準選手)や2年下にはタク(野沢拓也選手)、裕一(根本裕一選手)などが居て、シーズン中もトップの練習参加する選手が増えていました。

この日の試合は、東京都で活動しているクラブユース所属のトリプレッタと対戦。

記録が残っていませんが、確か勝ったはずです。

Jユースカップについては、翌シーズンに初の決勝進出を果たして、初優勝を飾ります。

1997年12月22日(月)
クラブハウスでの前日練習を終えて、試合会場のある浦和へ移動。

試合間隔が短いので、トレーナーの人達はマッサージで夜遅くまで大忙し。選手達の疲れ具合や細かい怪我の状況を、テクニカルスタッフやメディカルチームで情報共有して試合に臨みます。

1997年12月23日(火・祝)
天皇杯準々決勝(@駒場/5,497人)
鹿島 3-0 G大阪
[鹿島]マジーニョ②、ジョルジーニョ

ラウンド16の浦和 vs G大阪は、延長でG大阪が勝利して、ホームではない2チームが駒場で対戦。いかにも天皇杯らしい。

この日も、チームは3ゴールに2試合連続無失点と、安定した戦いぶりで準決勝進出。

7日間で3試合のハードスケジュールだったけど、勝利への強い気持ちが、足を動かしている感じ。

1997年12月24日(水)
いつもの通り、試合に出場した選手はリカバリーのみ。

試合に出場しなかった選手達だけで、クラブハウスでトレーニング。

1997年12月25日(木)〜12月26日(金)
クラブハウスでトレーニング。

時期が少しずれていますが、毎年高校選手権前に天然芝のピッチに慣れる為、出場するチームが、鹿嶋にやって来ます。

この年は、来シーズンに加入が決まっているモト(本山雅志選手)の所属する東福岡高や、満男(小笠原満男選手)の所属する大船渡高が来ていて、満男はこれまでにも練習参加や治療などで、クラブハウスに来ていて、この時も立ち寄ったはず。

19997年12月27日(土)
試合前日お約束のルーティンを消化。

午後に、東京へ向けて移動。明日は、久しぶりの国立競技場での試合。

1997年12月28日(日)
天皇杯準決勝(@国立/32,308人)
鹿島 3-1 東京ガス
[鹿島]ジョルジーニョ、ビスマルク、マジーニョ

準々決勝で、ベルマーレ平塚に延長の末3-2で勝利した東京ガスとの対戦。

この年に東京ガスは、Jリーグへの参加を表明して、名古屋、横浜M、そして平塚と、Jクラブに3連勝していました。

FC東京の前身である東京ガスとは、天皇杯で対戦する機会が多く、これで3回目。

1994年の第74回大会は、新潟市陸上競技場において、1回戦で対戦。

試合は、良いところなく、0-2で初戦敗退して、サポーターの皆さんを悲しい思いをさせました。

この日は、ジーコも試合観戦に来ていたけど、負けたから当然のごとく試合後は不機嫌...。(汗)

翌1995年の第75回大会は、また1回戦で対戦。今度は、カシマスタジアムで対戦して、ハセ(長谷川祥之選手)のゴールで辛うじて勝利。

天皇杯では、1勝1敗での対戦成績。東京ガスとの最後の戦いに臨みました。(1998年は対戦なく、1999年からFC東京に改称)

ビス、ジョルジ(ジョルジーニョ選手)、マジーニョのブラジル人トリオがゴールを挙げて決勝進出!

確か、この試合でヤナギが、試合中に手を負傷して、試合後にはベンチ入りしていた関ドクターと一緒に、関ドクターが勤務する病院へ移動して、診察と手術をおこなって、そのまま入院したはず。(ガンバ大阪戦だったかも?間違っていたら、すみません!)

鹿島アントラーズとなって、第73回大会以来の2度目決勝進出の相手は、その時に延長の末敗れた横浜フリューゲルスになりました。

フリューゲルスは、ジュビロ磐田を3-2で破っての決勝進出を果たしました。

1997年12月29日(月)
この日も、試合翌日のルーティン。

クラブは、27日で仕事納めでしたが、天皇杯決勝出場が決まり、チーム対応にスポンサー対応やメディア対応がある為、スタッフは大晦日まで、ほぼ普通に出勤。

こういう出勤だと、スタッフも嬉しいことですので、当たり前だけど文句を言うことなく、それ以上に「今回こそは天皇杯を!」という想いを持って出勤していました。

トレーニング見学に足を運んでくれるファン・サポーターの方も、結構な人数がいてありがたい限りです。

1997年12月30日(火)
クラブハウスにてトレーニング。

確かヤナギが、退院してチームに合流。手の包帯が痛々しいけど、本人は決勝に向けてやる気満々。(ヤナギが負傷した試合が曖昧な記憶なので、戻ってきた日が違っているかも知れません。すみません!)

1997年12月31日(水)
今シーズン最後のトレーニング。

試合前日なので、もちろん軽めのトレーニング。

トレーニング後は、シーズン最後という事もあり、選手達は自分のロッカーを片付けます。

明日は、試合に出場しない選手達とベンチ入りしないチームスタッフ、クラブスタッフ全員も、朝に鹿嶋をクラブで用意したバスで出発して、国立競技場で観戦する事になっている。

私は、出場メンバーと一緒に、東京へ移動。

1998年1月1日(木・祝)
天皇杯決勝(@国立/48,016人)
鹿島 3-0 横浜F
[鹿島]4分:増田忠俊、25分:マジーニョ、87分:柳沢敦

元日を国立競技場で迎えられるのは、サッカー関係者にとっては、とても名誉なことです。

チームよりも一足先に国立競技場入りして、チーム旗とメンバーを提出したら、更衣室の準備の手伝いなどをして、チームの到着を待ちます。

この日の天気は、天候に恵まれた中での試合となりました。

これも記憶が曖昧ですが、試合前の国歌斉唱が北島三郎さんだったかな...?

試合は、今大会好調のマス(増田忠俊選手)が、開始早々に貴重な先制点を挙げて、チームの緊張感が一気に解れました。

マスは、アントラーズ加入直後の頃は、身体が細くて、ボールを持っても激しく当たられると、持ち味であるドリブルや細かいテクニックが活かせなくて、苦労していたけど、コツコツと積み上げていって、持ち味を活かせるようになって、一気にチャンスを掴みました。

追加点は、チーム得点王のマジーニョが挙げて、前半を2-0で折り返し。

駄目押し点は、試合終了間際にヤナギがバックヘッドの技ありゴールを奪いました。

選手達が、チャンピオンシップ後に言っていた「天皇杯決勝!」をしっかりと成し遂げた!

そして第73回大会では、手に出来なかった天皇杯を獲得しました。その試合に出場していた選手達も、結構いましたから、喜びもひとしおだったしょう。

これで1997年シーズンは、ナビスコカップ、天皇杯の二冠⭐️⭐️で終える事になり、国内三大タイトルを、全て1回獲得した事になりました。

マジーニョ選手は、5試合連続7ゴールを挙げて、攻撃陣を牽引しました。シーズンを通しても、公式戦51試合で37ゴールを挙げる大活躍。

いつもMLBキャップをかぶって、クラブハウスに来ていたのが懐かしいな。

マスは、シーズンを通して活躍した事で、翌年には日本代表に招集されました。

表彰式を終えて、ゴール裏に天皇杯を持ってサポーターの皆さんと一緒に喜びを分かち合える時間は、チャンピオンシップでの落胆を経験していただけに、いつも以上に熱量が高かった気がしました。

試合後は、手配していたレストランへ全員で移動して、今シーズンの納会と祝勝会。

みんなニコニコ顔で歓談していて、やはり勝って終われるのは嬉しいけど、つい半月前は打ちひしがれていた事を思うと、とても不思議な感覚がありました。

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