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☆北斎づくし展から見えてきたこと

日本画というのは昔から興味があって、
六本木のミッドタウンで北斎の展示があるというので訪れてみた。

絵の知識は皆無だけど、「富嶽百景」という単語くらいは知っているので、赴くままに観てみようという程度の心持ちだった。

いろいろと思うことがあったので、残しておこうと思う。

■テーマ
「描くこと、見ることをつくす」

この世にあるありとあらゆるものを、どれだけ描けるか。猫は?相撲取りは?富士は?もっといえば、幽霊は?波は?風は?
描けるということは事象や物事を捉え、解釈していることなんだと思う。
僕は絵が描けないけど、世の中に起こっていることを誰かに伝えるという意味では、文字で起こすことも描写する行為も繋がる部分が多くあるのではないかと感じた。

■最も心が惹かれた絵

どの絵も素敵だし、引き込まれる魅力があった。
個人的に飲み込まれたのは、全体を捉えた風景画だった。(写真参考)

観たことがない場所なのに、どこか懐かしみを感じ、日本らしさを感じられる。
橋や建物は人が造ったものではあるが、自然と調和し溶け込んでいる。
全体を俯瞰で捉えたときに日本という国の美しさと白黒で描かれた世界が目の前に広がっているような感覚を受けた。

■絵なのに動く不思議

僕が観ているのは「絵」なのだ。
いわば、静止画でそこに描かれており、突如として動き出すことはない。
それでも、「動き」が見えるのだ。

たとえば、この弓を引いている男の絵。
ゆっくりと固唾を飲んで見守ってしまう。
なにを打ち抜こうとしているのか、それともお稽古か。
北斎の気持ちになれば、弓の使い方を教科書のように記す心持ちだったのだろうか。

ただ、一方でこれが受け継がれてきたということは、日本人の動きの型を意図せずともこの描写のまま継承していることになる。
たとえば次の絵はとてもわかりやすい。

2人の男が刀を手に斬り合っている瞬間だ。
絵としては魅力的だが、一人一人の動作に着目すれば身体の使い方としては「硬さ」が目につく。
力を込め、がちがちに硬直した状態で斬り合う(少なくとも僕にはそう見える)
これが要因かは定かではないが、頑張る=歯を食いしばるみたいな感覚はこういう絵からも多分に引き継いでしまっているのではないだろうか。

パーツを切り取るので、型化できるスポーツは強い(たとえば野球)。
でも、全体の動きの中で動作をするとなると(サッカーのように)静止画では表現しきれず硬い動作になってしまうということも強引に結びつければ言えなくもない気がする。

■神が宿る国には理由が

神々が宿る日本という国は建物の描写にも現れていた。
たとえば鳥居が一例だ。

絵を描くことによって、平面として理解でき、
構造を整理することができる。

水や金、宿るべき神々を鳥居の中に落とし込めば、後世に伝わる関係図が成立する。
自然との調和の中で生まれた建物が先行し、建物の中に神が宿るという発想は日本的なような気がする。(おそらく西洋では神がいて、それの象徴として建物が建てられるという順序?)

■着想を得るための遊び心

あたりまえの順序ではなく、ルールを取っ払ったり逸脱させてみる。
アイディアを解放するためのコツの一つだ。
北斎も遊び心あふれる辞書ならぬものを作っていた。

漫然と描かれた冊子の中には、脈絡のない絵たちが並んでいる。
なにか発想するときに使えそうだし、こうやって漫才の設定なども生まれたのかな?

■細部まで遊び心が

本展示会は至る所に遊び心が張り巡らされていた。

こちらは出口の図。
これは写真を撮ってInstagramに載せてね?っていう仕掛けのような気もするな。

またスポンサーであるJALとのブーススペースも遊び心が。(思わず写真を撮った)

巡礼マップとして各地を記載していた。
(旅行というワードを使わずにどう溶け込むか担当者は考えたんだろなーと。)
素敵なブースになってました!

いろいろな発見もあり、とても楽しかった。
松岡正剛さんの本が久しぶりに読みたくなりました。

それでは。

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