☆隈研吾展はアイディアの宝庫だった
建築士になりたい。
僕が小さい頃漠然と描いていた夢だ。
サッカースタジアムやコンサートホールなどとにかく大きな建物を造ってみたいと子供心に思っていたのが懐かしい。
本展に展示されていた模型を観ながら、小さい頃よく爪楊枝や画用紙を使って建物を組み立てていたなーと思い出した。
社会人になった今、改めて建築物の展示会に足を運んでみて発見がたくさんあった。
僕は今後建築家にはなるつもりはないけれど、世の中に何かを生み出すという点では現業にも通ずる点が多くあったと思う。
まったく別業種の人の本展示を見た感想というか独り言だと思って読んでもらえたら嬉しいです。
ぜひこのブログを読んで興味が湧いた方は国立近代美術館へ行ってみてもらえると!
1. 「建築を開く」という発想
⒉ 公共性と繋がる建物
⒊ つながりそうなこと
💡「建築を開く」という発想
隅さんの建築には一貫したテーマがある。
それは、建築を通じて「人をどこからどこへと繋ぐか」ということだ。
建造物を単にハコとして捉えるのではなく、ツナグものとして捉え、世界と関係性を築こうとする。
展示会には「孔/Hole」としてまとめられていたが、穴を持つことで人やモノが往来する空間を創るのだ。これが「建築を開く」という発想になる。
建物とは、そもそも外と中を切り分ける(いわゆる区切る)意味合いを持つ。建物は入り口を持ち、それは通常出口にもなりうる。
日本では特に玄関を入ると一段高くなっていることが多く、靴を脱ぐ習慣が多い。つまり、プライベートな領域は中と外を明確に切り分ける慣習を持つのだ。(参照:松岡正剛「日本という方法」)
この常識を公的な空間の意味を持つ建築に逆手に応用した。建物に穴を持たせ、入口とは異なる繋ぎの部分を持たせた。
これにより、空間が開かれた存在になる。つまり、雰囲気に新しさをもたらしたり、明るさをもたらすことにもつながった。
特に興味深かったのは、高輪ゲートウェイの駅舎だ。上にも「開く」ことで、空間を最大限活用し、未来へ進んでいくんだというメッセージをも込めることになった。
開放性を「開き」を持って獲得することで、空間だけでなく時間も広がりを持つようにすら感じられた。
💡公共性と繋がる建物
公共性とは、その建物が開かれたものであると同時に、多くの人に受け入れられる必要があると僕は思う。
もちろん建物の造りにそれぞれの好みこそあれど、出来るだけ多くの人がその空間を共有した時に居心地が良いと感じられる空間が望ましい。
東京オリンピックのメイン会場として建て替えられた「国立競技場」だが、網目状に格子のように張り巡らされた屋根や設計から、スタジアム全体が世界と繋がっているということを表している。
人の出入りももちろんそうだが、空気の抜ける隙間をつくることで、会場全体の風通しの良さを作り出すことができる。
また選手たちの声や観衆の声援が会場から世界へと広がっていく、そんな素敵な設計になっていた。
スタジアムはその街の、その国の象徴的存在である。もっと言えば、このスタジアムで歴史が動き、造られていく。
多くの人がわくわくしたり、感動したりできる最高の場所であるために、このような明確なコンセプトを持ったスタジアムが作られるのはとても素敵なことだと素直に思った。
💡 つながりそうなこと
パッと思いついたのは「組織」に似ているということか。ガチガチの組織は行き詰まるし、苦しい。
隙間があり、いつでもその場から離脱できる環境を整えておく必要もあるのかもしれない。
体育会出身の僕からすれば、組織に所属することはそれなりに覚悟が必要で、それは組織にある程度身を捧げる必要があると思っている。
その組織の中で、やるべきことをやるからこそ、組織内外で自由や裁量権が与えられると信じているからだ。組織に対する忠誠を求められるし、それが体育会系という言葉にできない認識がある。
でもそれすらもおそらく内に閉じないほうが良さそうである。
学校もその一つかもしれない。
ある種閉塞的な社会は、生徒たちの逃げ道を塞いでしまっているのかも。
誰もが学校を楽しい場所だと思えているわけではないはずで、学校という空間を建築を見直すことで隙間を作れるなら、閉鎖的な空間の中に生徒を閉じ込めてこく環境に光を見出せるかもしれない。
会社ももちろん同じで、フリーアドレスの座席にしたり、フロアの壁を取っ払ったりするのは隙間を作ると言う意味では似ているのかも。
組織も空間も同じで、建造物から学べることは多くあるのかもしれないと感じた時間でした。
それでは。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?