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「核」捨てられないごみのこと

先日、僕が子どものころからお世話になってきた、第2の故郷といってもいい町が「核のごみ」の受け入れ場所選定の第1段階に踏み出す意向を示した。

調査の先には当然、「核のごみ」を埋めて処分することが見据えられている。調査の段階で町は国から最大20億円を受け取ることができ、北海道の片田舎の苦しい経済状況を立て直す資金となる。

個人的な感情を言います。僕は北海道の海が好きです。うまく泳ぐこともできないし、別段外から見てきれいな海というわけでもないかもしれない。でもあそこの海で僕は育ちました。磯に降りてなかなか釣れない蟹と何時間もにらめっこしたり、防波堤から飛び降りて水面が痛く感じたこと、あの砂浜でいくつも流木を拾って集めたり、天然の昆布を火で炙って食べたり。経済的に苦しいこともあるのかもしれない。5年、10年より先に経済破綻を起こすのかもしれない。ぼくには何もわかりませんが、それでも今持ち込まれようとしているそれが決して未来を創るものではないことは分かります。経済は破綻しても建て直せばいいのではないでしょうか。100年後の子どもたちが安心して遊べる海があることのほうが、よっぽど大切なことなのではないでしょうか。そんなにしてまで繋ぐべきものなのでしょうか。無知でごめんなさい。でも、海は建て直せません。

感情的な文章になってしまい申し訳ありません。よく考えれば、そのごみはもうすでに出てしまっていて、どうにか廃棄しなければいけないのも事実ではあるんです。寿都でなければ、自分にかかわりのないところであればいいのかといわれたら、何も言えません。いいわけがない。そもそも原子力発電に頼ってしまっては未来は暗いのではと思います。今回、より強くそれを痛感しました。決して他人ごとではない。慎重な判断が必要で、今すぐに答えの出せるものではありません。

少なくとも僕にはそういう原風景があって、それを守りたいと思いました。何も考えず自然と触れ合ってきた経験がなければ、僕はもっと他人ごととして考えていたかもしれないなと、ふと思いました。

まとまりのない文章ですが、個人的に駄文を垂れ流す場所として使わせていただいているので、ご容赦ください。

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