伝えないことだけが自殺対策か

 「東京・四谷のビルから飛び降り自殺しました」。テレビ朝日の夜の看板番組「ニュースステーション」の中で小宮悦子アナウンサーが伝えたのは一九八六年四月のことだった。若者に人気を博したアイドル、岡田有希子が新宿区四谷の大木戸ビル七階屋上から飛び降り自殺したことを、テレビ朝日だけでなくNHK、TBS、日本テレビなどの公共・民放各社がありのままに伝えた

 ▼葬儀・告別式で、身を預けた有希子の棺が霊柩車に入れられ、去っていく場面までをも映した。アイドル歌手の突然の自殺は、若者たちの心にショックを与えた。社会問題となったのはその直後のこと。全国各地で、どういう訳か若者の自殺が急に増え始めた。本県でも、日立市の看護見習いの十代の女子が寮の屋上から飛び降り自殺。横浜・神戸・広島など全国各地で若者ばかりが相次いで自殺するようになり、「ユッコ・シンドローム」といわれ、社会問題と化した。有希子が飛び降りた大木戸ビルでも後追いした者が出るほどだった。自殺を報じればさらに自殺が増えるという負のスパイラルは止まらなかった

 ▼とはいえ、人の噂も七十五日といわれるように、一年ほどすると後追いのような自殺は一応落ち着きをみせた。しかし、有名人が自ら命を絶ったことが報じられる度、その月の自殺者が増える傾向は少なからずあった。元X・JapanのHideこと松本秀人氏が自殺した時、元TBSアナウンサーの川田亜子氏の時、そして藤圭子氏の時と、有名人が自殺したことを取り上げる度、自殺者は増えた

 ▼自殺を報道することが人々の心に影響を与えることが論じられるようになったのはここ十数年来のことで、それはウェルテル効果といわれる。外国の作家が出した本に影響され自殺者が増えたことが由来とされている。報道の現場でも問題視されたのか、最近ではテレビで明確なそれを使うことを避けるようになった。コロナ禍のころ、俳優の三浦春馬さんが首つり自殺した時の報道姿勢は特に問題視され、厚生省が報道機関に対して自粛の「要請」をするほどだった。以来公共、民放各局、新聞各紙から「自殺」という二文字が使われることが減った

 ▼とはいえ、所詮言葉遊びに過ぎないように感じられてならない。自殺という言葉がダメなら、「急死」とか「亡くなる」と置き換えれば良いという安易な対策になってしまった。自殺を報じる時には必ず最後に「いのちの電話」などの案内文を出し、告別式や葬儀の様子は報じない。出来得る限り続報はしないようにした。しかし、これらの対処は一人の人間が死を選んだ経緯を解明することを難しくしているように思えてならない

 ▼四十年ぐらい前の新聞に目を通すと、会社員や自営業などの一般人の自殺から有名人に至るまで、ほぼ公正公平に報じられている。もっとも、表記はすこし品のないものではあるが。一人の人間が死を選ぶに至る背景には、他人からは絶対にわからない苦悶と葛藤が絶対にある。面白おかしく取りざたすことは倫理的に許されないだろう。しかし、人間が自殺する背景にあった問題を解き明かし、背後にどのようなことがあったのか。そこには普段の生活からは見えてこない大きな社会問題が潜んでいるかも知れない

 ▼その根本的な問題に迫ろうとすることを、「自殺者が増える」と一律に禁止してしまうのはすこし乱暴な話に思える。一人の人間の苦悶の原因まで解き明かしてやることが求められるのではないだろうか。ピーク時より減ったとはいえ、厚生省の調べでは前年も二万人以上が自殺している。死んでいった人々が抱えていた問題はなんだったのか。それすら解き明かすことはできない

 ▼ふと知人から聞いた、「臭いものにふただね」ということわざを思い出した。なかったことにすれば良い、伝えなければ良い。それが本当に社会のためになるのだろうか。

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