伝える 伝わる

村上龍のずいぶん昔の小説に「長崎オランダ村」というのがあります。
高校時代の先輩後輩だった二人が食事をしながら、後輩が仕切ったイベントの顛末について語り合うという作品です。

そのイベントは長崎にあるオランダ村というテーマパークで行われたワールド・ミュージック・フェスティバルというものでした。
名前の通り世界のあちこちからミュージシャンや大道芸人やバフォーマーを集めて、40日の間、園内で様々な音楽を演奏しようというものでした。
そして世界中からやってきた人たちの間で、それぞれの習慣や文化の違いから引き起こされるドタバタを、面白おかしく描いた作品です。

物語の終盤でイベント期間も終わり打ち上げのパーティーが開かれます。
そのパーティーでも様々なトラブルが起こるのですが、最後はたまたま全員でビートルズの「Let it be」を何度も何度も延々と繰り返し歌って終わります。(もしかしてHey Judeだったかも)

そしてそのことにたいして、イベント担当者として散々苦労してきた語り手の後輩が「世界のあちこちからきたみんなが、一緒に歌える歌があって本当によかったと思った」と感想を述べます。

  ♪   ♪   ♪   ♪

全くの偶然ですが、自分が日本の劇団の照明スタッフとして韓国に行った直後に、アジアの七つの国からミュージシャンやパフォーマーを集めたイベントに現地スタッフとして関わりました。
その中で「伝える」ってどういうことなのか改めていろいろ考える機会がありました。

昔から音楽はうらやましいと思ってきました。
言葉が通じない人たちの間でも伝えることができるから。
逆に演劇は基本的には言葉に寄って立つものなので、言葉が伝わらない同士だと理解できない部分が大きいのではないかと。でも今回、伝える側受け取る側両方の立場を経験してみて、そして様々な種類のパフォーマンスを見て、それほど単純なものでもないという気もしてきました。

日本でのイベントでは音楽系とパフォーミングアート系の両方が出演していました。
その両方を同じ条件の中で見比べてみると、むしろ音楽はそれだけで「伝わりすぎる」ために、その奥にあるそれぞれのパフォーマーの個性やそのバックボーンにある土着性が見過ごされることもあるのではと思ったりもしました。

音楽と同じ言語を介さないアートである舞踏やダンスだと作品を構築する要素はより複雑になり、そしてその分見る側に伝わるものも多かったように感じました。

それはその直前の韓国で、言葉を拠り所にしている演劇でも、構成や見せ方を工夫すれば伝わるものは充分にあることを、発信する側と受信する側の両方で感じたので余計にそう思ったのかもしれません。

まだ個人の感想のレベルですし自分の中でも考えがまとまっていない部分も大きいのですが、とりあえず気持ちがまだ新鮮なうちに残しておきたいと思ったのでここに書いてみました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?