子ども観の共有を(子ども観は違っていい,当然だけど,だって民主主義の国だもん)

子どもたちが「やっている」と,子どもたちが「やらされている」ってかなり違うと思うんですよ.
その違いってなんなのって思うんだけど,一番大きいのはそれぞれの教師のもつ子ども観かな,と.

子どもを「まだ何も知らない存在,導いてやらなければならない存在」と見ると,「教えてあげなければこの子たちが将来困ることになる」と考える.
子どもを「小さな大人,私達と同じものを内包してるけどそれは引き出さないと子ども自身にも自覚できないかもしれない」と考えると,「引き出し方を一緒に考えよう」と考える.

幾らアクティブ・ラーニングや「主体的・対話的で深い学び」といって「授業改善がんばろーぜ」と言ったところで,子ども観が違うならそれはかけ声だけになる.子ども観は違っていいんだけど(それぞれの考えを規定することは出来ない,縛ることは出来ないし,そんなことしたらおかしいでしょ,民主主義じゃないでしょ),先ずそれぞれの教師が自分のもってる子ども観をアウトプットして,共有して認めあっていく過程が必要なんじゃないかって思うんですよね.少なくとも,同じ職場の中では(本当は市内でもそういうことすりゃあいいんだろうけど,市教委はそんなことよりも如何に見える学力をあげるかってことにしか腐心しないからあてにはできねぇ).

子どもが自ら「やっている」という実感をもてば,学校はもっともっと楽しくなるし,子ども自身がもっともっと学びが楽しくなるんですよ.
そこは,教授行為がどうこうというところじゃなくて,でも多くの学校や教委では割とそういうところをつついて「授業研究が〜」とか「授業改善を〜」とか言ってるでしょ.

要は,もっと子どものもつ「ひかり」を,ひとりひとりのもつ「ひかり」を見つめて,その「ひかり」を大切にする学級や学校をつくりましょうよ,ということなんですよ.
それは,子どもを「未熟な存在」「大人が教えてあげなければ困る存在」と思っていては実現できないんですよ.

ということで,「教育実践対話集会『ひかり』」という学習会を月イチでやってます.主に兵庫とか今後,鳥取でも.教授行為や授業のhow toではなく,互いの実践報告を通して,子どもの「ひかり」をどの様にみとっていくかを考える集まりにしたいと思っています.

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