賞をとることよりも大事な事
眠れない。
夜中のテンションで何か書くとロクな事がないけれど、どうせ数人しか見てないだろうし好きに書こうと思います。
世界の1%しかアートマーケットがない日本において、そもそも販売活動を全員が全員充実させるのは難しいのは明らかな気がする。部屋は小さい、給料は下がる、少子化、税制も変わる気配なし、他に面白過ぎるコンテンツが多すぎる、投資としても流動性も再現性もない、どう足掻いてもアート購入がホットなコンテンツに変わっていく気配がない。
殆どの人は、いい作品を作っていてもそれを欲しいと思う人に見せられる機会がないまま辞めざるおえないのだ。
目標を作品で生活するではなく、幸せな作家になる事にする方が大事だ。
マーケットがない日本においても、幸せにはなれる。
一方で、マーケットがある海外でもまるで実業家かのようにいつも金銭の事で頭がいっぱいの幸せそうでない作家もいる。
社会的には成功し、メガギャラリーの取り扱いになり、世界中の美術館に作品が収蔵されている。
しかしいつも、アシスタントに当たり散らして、何故もっともっと称賛されないのかと何かにイライラしている。
いつ売れなくなるのかピリピリして、才能ある若い作家に目を光らせ、他人と比較して安心を得ようとする者もいる。
そんな作家がゴロゴロいる。
いくら稼いでいても幸福は買えない。
絵の才能がある事と、自分自身を大事にする才能がある事は別物で同じではない。
日本では、財布を落としても殆どの場合戻ってくる。
これだけ他人の気持ちを考えれる民族は、日本位だ。
この財布を盗めば少しの金は、獲れても盗んで誰かが困っている上で自分が楽しい事をしても楽しくない。寧ろ苦しい。罪悪感で一杯になる。それよりも交番に届けて気持ちよく生きた方がよっぽど得るものが大きい。
ちゃんと日本人は、そう想像できる。海外からみたら、頭おかしいのでは?と思われる程クレイジーなのだ。日本人は、一人一人が日常生活がアートなのだ。
奇しくもアートを必要としていない日本だからこそ磨かれる感性なのかもしれない。
春には桜が舞、月や海が綺麗で、絵具だって買えて、大体何でも描く事が許されていて、階級社会なんて殆どなくて、本や美術館も好きなだけ見れる。何をどう表現したって殆ど誰からも怒られない。誰にも売れなくても誰にも咎められない社会がある。
賞をとったり、販売実績より
一番難しいのは、何気ない小さな喜びを幸せと感じ続ける事だ。