夜、時々

なにかの終わり、非日常から日常への境界(今回はお盆休みから平日)を跨ぐたび、その夜、何かそこ知れぬ逼迫感とともに、得体の知れない心臓の動悸が襲ってくることがある。

それが起こるたび何か原因を探し出して心を落ち着けようとして、直近での不義な行い、人生のタスクの先送り、浪費した時間、あるいは手を伸ばしていないものへの憧れといった“思い当たる節”を際限なく掘り下げて、やがて自身の感情にタナトフォビアという名前をつけて、決して逃げられることのない恐怖が心臓に張り付いて離れなくなる。

そういう時は決まってパトラちゃんのASMRを大音圧で聴いてみたり、明るいお気に入りの曲を大音量で流してみたり、とりあえず冷房を強くして麦茶をいっぱい飲んでみたりして頭を洗い流そうと頑張るんだけど、一度効果を実感した方法は得てして効果が薄まってしまう。

結果、おおむね1〜2時間ほどぐるぐると頭を回して、今回でいえば諦めて電気をつけて一旦目についたライバーの配信でも流しつつ、今この瞬間、誰かが楽しく日常を過ごしている様子を脳にインプットしてみたりする。
そうして過ごしていると、いつかは、特に何も解決しないまま、収まる。

こうやって考えると、これはなんのメリットもない、ただのネガティブな話。
起こらなければ苦しむことはないし、それだけ人生を穏やかに過ごせるんだろうなあ、とは思う。
でも、それが起こるたび、それでも毎回何か答えを探して考えを巡らせ続ける中に、確実に何かを得ているとも信じている。

不義を改め、先送りを自覚し、日々の時間と向き合い、渇望を認識する。人生観と死生観を見つめ、自らを委ねられる何かを必死に探して、赦しを乞うことを自身に許す。そして、人に触れる。
それら全てを頭の裏に書き殴って、清算して、自分なりの答えを出して、顔を上げる。

そうすると、ただでは転ばない。

そこまでやっても何かが変わるわけじゃないけど、変えるための何かを掴んだ気になれて、得体の知れないネガティブな感情を、得体の知れないポジティブなエネルギーに変えることができる。

それが、尻すぼみな日常の未来図を、自らの手で非日常に彩ってやろうという、原動力になる。

そんな話。

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