ところで御殿場と承久の乱

そろそろ承久の乱が気になり始めました。
大河ドラマに御殿場がずっとでてこないので、富士の巻狩ですら出てこなかったので、もうワンチャン承久の乱かなー!と思いまして。

御殿場というところは、境目の地であることは皆様のご存じの通り。
箱根町(神奈川県)、山中湖(山梨県)に向かう道路が交差しているところでもありますし、江戸時代には小田原藩領。今は静岡県なのにね。
境目の城・深沢城なんてのもありますしね。
ここ、多分承久の乱との関わりのポイントだと思うんですよ。

むかしむかしのこと、藍沢野を行き来していた源頼朝さんたち。
富士の裾野で行われた大軍事演習『富士の巻狩』。
この演習の時の地名が当地にはとても多く、最近よく取り上げられるのは「矢場居」。テレビかなんかでもやってたかなぁ。
頼朝が矢場居は矢を射った場所と言われていますが、こうした頼朝自体の行動一挙手一投足にちなむ点での地名から、和田義盛のように行動の足跡が辿れそうな「和田道」という線での地名など、富士の巻狩は藍沢野で沢山の地名や伝承地をのこしていますね。(参考:教育委員会編/文化財のしおり25、古文書を読む会編/ごてんばの古道)
しかし、大河ドラマではあんまりというか、御殿場はでてきませんでした。
仁田忠常が飛び乗った猪を仕留めた「文珠四郎」という刀の伝説もあるんですけどね(参考:教育委員会編/文化財のしおり17、北駿郷土研究会編/北駿郷土研究)
ドラマの後に紹介される関係個所案内ですらいまだに御殿場、出てきていない気がしませんか?気のせいかな。
あれ?なんでかな?頼朝伝承あるのにね。って思っていたんですけれど、きっとこれは御殿場には承久の乱があるからでは!と勝手に思っています。

はて、なんで承久の乱??と思うでしょう。たぶん鮎沢の人はご存じかな。
御殿場は、承久の乱で処刑された人たちにゆかりが深いのです。
処刑された藤原五卿のうち、藤原宗行卿終焉の地が当地です。
藤原宗行卿は北久原のお堂で祀られたとか、その地に祀られていた持仏がどこそこの神社に行ったとか、処刑地がどこそこだとか、いろいろ伝承はあります。久成寺さんにも祠があったかな。(参考:みくりや風土記)
姫が滝という場所があり、五輪塔が残されていますが、この場所は藤原宗行の娘、白菊姫が父を追いかけて当地までやってきて、自刃した場所とも言われています。
また、『牢場』と呼ばれていた土地が現在の鮎沢の藍沢神社で、現在は藤原宗行さんを含む藤原五卿が祀られています。(参考:教育委員会編/文化財のしおり18、文化財のしおり29)

では、宗行さんはなぜ、御殿場の今や中心地ともいえる駅近くで祀られているのでしょうか。
この近辺は、かつて大沼と言われる大きな沼があったそうです。
その名残は、少なくとも昭和に入り高速道路を作る頃まではあったようです。
この大沼は駅周辺から、二岡神社の手前まで広がっていたと伝わる、大きな沼でした。古くは南小学校の方にもかかるような、それはそれは大きな沼だったとか。
大沼の話はまた別でするとして、神社は大沼の淵周辺に位置していたのではないかと考えられるのです。
つまり、処刑は境目の地で行われたのではないかという仮説もあったりします。(参考:御厨の御殿調査報告書)
宗行卿だけではなく、もう1人、御殿場から山中湖村(山梨県)に向かう駕籠坂の途中にも五卿のうち一人の光親卿のお墓がありますね。
光親卿は駕籠坂峠の途中にお墓があることもあり、とても分かりやすいと思うのですが、境目での処刑です。(実際の処刑は平野村だったかな)

そんな訳で、承久の乱はエピソード的に勿論大河ドラマで出てくるでしょうし、当地は、そういう意味で関わりはあるでしょうし、ゆかりの地の紹介くらいはその頃、きっとされるのでしょう。
と、思いたいのですが、実際のところどうなんでしょうね。
承久の乱、ドラマの中では一瞬で終わりそうですしね。どうなるんでしょう?

和田義盛がとても魅力的なキャラクターだったので、本当は当地の紹介は、「和田道」など和田義盛ゆかりの地としてご紹介頂きたかったのですが…!

あ、和田義盛と和田道についてはまたの機会に。

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