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人文学・社会科学の社会的支持を向上させるために

科学技術・学術審議会学術分科会(第69回) 2018年8月22日13:00−15:30

人文学・社会科学の社会的支持を向上させるために

大阪大学大学院経済学研究科 大竹文雄

1. 人文学・社会科学に対する批判

 人文学や社会科学の教育・研究が社会に役立っていないのではないか、大学ではもっと役に立つ実践的な教育をすべきではないか、という意見をしばしば耳にする。確かに、大学で教えられている人文学・社会科学の知識が全ての学習者にとって直接的に社会で生きて行く上で役に立つものばかりではない。しかし、それは人文・社会科学に限った話ではない。工学系や自然科学系の学問分野においても、直接的に役に立つものばかりではない。基礎研究の多くは、応用研究の基礎となるものであって、直接、基礎研究が私たちの生活の役に立つことは少ない。理系の基礎研究に対する批判が、人文学・社会科学の教育・研究に対する批判より少ないのは、大学教育を受ける人の期待とのギャップが大きい。理系の学生の多くは、応用を学ぶために必須の基礎知識として理解して学んでいるので、自分が学んでいることがどのような経緯で役に立つかを理解しやすい。

 それに加えて、大学で学んだことが社会で役に立たないという印象を卒業生がもつ理由には、いくつかある。第一に、大学での学習のレベルが、社会で役立てるには不十分だった可能性である。どの分野でもある程度のレベルに達しないとそれを応用する力まではつかない。表面的な理解だけでは、知識は身についても、実社会で役に立てるほどのレベルに達していない可能性がある。これに対しては、大学側も応用を意識した教育をすることで、学んでいることとの関係性を学生に実感させることができる。人文・社会科学系での教育カリキュラムを工夫していくことが必要である。

 第二に、学問分野の進展である。過去には、存在意義があった学問分野が、研究の進展によって、その重要度を失うことは、研究の最前線はしばしばある。学問分野の中では、そのような新陳代謝が常にあり、同じ名前の学問であっても、数十年前のものと全く異なっているものは多い。生物学はその代表だろう。経済学でも、数十年前の標準的な教育内容と現代のそれは大きく異なっている。一時代前の学問を学んだとしても、卒業した後、学生時代に学んだことが既に陳腐化しているということは発生する。これは学問が発展している以上避けられない事態であるが、教育する側は学問分野の発展に対応してカリキュラムを変更していくことが必要である。何十年も同じ講義ノートを使って講義をしている教員というステレオタイプな批判があるが、現在の大学でそのような教員は非常に少ない。大学教育への批判は、批判する本人が20年以上前に自分が受けた教育が、現在もそのまま行われているという想像のもとで行われていることが多い。現在の大学教育では、シラバスをもとにきちんと計画的な授業が行われていることがほとんどで、大学生の出席率も高く、授業態度もまじめである。

2. 人文学・社会科学者からの反論

  同じ文系の学問でも、役に立っていないのではないかと批判されるのは、社会科学よりも人文学であろう。多くの反論があるが、その中でネットでも話題になったものに、大阪大学大学院文学研究科教授の金水敏氏が、2017年の大阪大学文学部卒業セレモニーで行った式辞がある 。金水氏は、文学部卒業生たちが「なんで文学部に行くの」とか「文学部って何の役に立つの」という文学部に対する批判をしばしば受けると指摘する。それに対して他の学部であれば、比較的明確に役に立つと答えられるという。「医学部は、人が健康で生活できる時間を増やす」、「工学部は便利な機械や道具を開発することで生活の利便性を増やす」、「法学や経済学は、法の下での公正・平等な社会を実現したり、富の適正や再配分を目指したりなど、社会の維持・管理に役立つ」と言える。しかし「文学部で学んだ事柄は、職業訓練ではなく、また生命や生活の利便性、社会の維持・管理と直接結びつく物ではない」という。

  では、文学部で学んだことは何に役に立つのか。それは、「問いを見出し、それについて考える手がかりを与えてくれる」ということだという。具体的には、「私たちの時間やお金を何に使うのかという問い」や「私達の廻りの人々にどのような態度で接し、どのような言葉をかけるのかという問い」にもつながり、「日本とは、日本人とは何か、あるいは人間とはどういう存在なのか、という問い」にもつながる。したがって「文学部の学問が本領を発揮するのは、人生の岐路に立ったとき」だと金水教授は述べる。つまり、金水氏によれば、人文学は人のよりよい意思決定に役立つというのである。この指摘は、人文学・社会科学の研究者の多くが同意できるものである。ネット上で多くの人が賛同していたのも当然である。

 この議論は、人文学が役に立つという点では、説得的な話である。この文章が文学部卒業生に向けて、彼らが大学で学んだことが役に立つという自身と誇りをもってもらうことを目的にしているので、十分に目的を果たしている。しかし、もともと人文学・社会科学に対する批判は、国立大学などで公的資金を投入して教えるべきものかどうか、という点にある。もし、金水氏が指摘するように、将来十分に役に立つということであれば、人々は人文学・社会科学を全て個人負担で学べばよいということになる。これは、理系の学問にも言えることである。個人や会社にとって、その学問が役に立つということであれば、その分、個人の所得は高まり、企業の利潤は増えるはずなので、個人も企業も教育や研究に喜んでその費用を負担してくれるはずだ。つまり、税金をもとにした公的な補助金を大学に投入する必要はない。役に立つ学問であれば、私立大学で教えればよく、国立大学で教えるにしても税金からの補助金は不必要だという議論になってしまう。

 人文学・社会科学は学んでも役に立たないから国立大学で教える必要はない、と批判者側の問題を設定してしまうことが間違いなのである。そのように問題設定をすると、役に立つという反論をしたり、学問を役に立つか立たないかという価値基準で判断することが間違いであるという反論したりすることになる。役に立つと答えれば、役に立つなら授業料収入だけで経営できるはずだ、という反論をされる。

 一方、役に立つかどうかという判断ではなく、その研究が面白いかどうかで判断すべきだ、という議論は、研究者の立場としては十分に理解できる。しかし、その費用を誰が負担するか、という議論になった時は別の話である。役に立たなくても良いから税金を使って面白いことを研究するための費用を税金で負担せよ、と言われて、税負担をする人は納得するはずがない。あるテーマを面白いと思った人が勉強すれば良いのであれば、面白いと思った人がそのための費用を自分で払えばよいので、税負担の根拠にはならない。

3. 税金を使って人文学・社会科学を振興すべき理由

 税金をもとにした運営費交付金で運営されている国立大学で人文学・社会科学(人社系)の教育・研究が行われたり、様々な研究費や補助金が人社系分野に投入されたりしていることの背景となる考え方は何であろうか。ここまでの議論で、単に役に立つからではない、ことはわかる。

 税負担をもとに政府が行なうべきことは、経済学ではきちんと定義されている。第一に、行動に正の外部性がある場合である。第二に、所得再分配を目的とするか、借り入れ制約がある場合である。外部性とは、ある人の行動が金銭的な移転をともなわないで、他人に利益をもたらしたり、満足度を上げたりすることを言う。人文学・社会科学の教育を受けたり、研究を行ったりすることが、本人の所得や幸福度を上昇させるだけではなく、他の人にもプラスの影響を与える場合、人文学・社会科学の教育や研究に外部性が存在することになる。この場合、授業料や企業からの寄付金だけに依存して教育・研究を行うと、他人の教育投資や研究投資の成果にフリーライドする人が出てくるため、人社系の教育・研究水準は、社会的に最適な水準よりも過小になってしまう。そのため、人社系の教育・研究の振興に税金をもとにした補助金が必要となる。

 第二の所得再分配や借り入れ制約を目的にする場合というのは、教育を受けることが、本人にとって役に立つと分かっていても、所得水準が低く、教育費を賄うことができない場合に、税金から支出することが正当化できる。ただし、この場合は、奨学金によって対応すればよくて、直接的に国が大学に対して補助金を出す必要はない。

 「文学部の学問が本領を発揮するのは、人生の岐路に立ったとき」という金水氏の指摘を、税金を投入して人文学を振興する根拠にするためには、教育を受ける本人だけではなく、社会にも役立つという外部性を強調する必要がある。外部性としては二つのものが考えられる。第一に、個々人がよりより選択ができるだけではなく、社会全体での意思決定を行う際に、よりよい意思決定ができるようになるという点である。いわば「公共選択の改善」という外部性である。人文学・社会科学を学んだ人がよりよい公共選択を行えるのであれば、その比率が高まることで、社会全体の意思決定もよりよいものになり、その便益はそれらを学んでいない人にも及ぶ。

 第二に、人々が人生の岐路に立った時に、より良い選択を行えるようになることで、個人の選択ミスから発生する社会問題や犯罪を減らしたり、社会保障の必要性を減らしたりことになる。より良い人生の選択を行えるようになることで、「財政支出の削減」に人文学・社会科学は貢献する。

 つまり、人生の岐路に立ったとき、よりよい選択ができるように個人がなることは、その個人だけにリターンが帰属するのではなく、「公共選択の改善」と「財政支出の削減」を通じて、社会に貢献することになる。 教育だけではなく研究についても人社系では外部性は大きい。人社系の研究で得られた成果の多くは、特許として個人や企業に属するのではなく、成果そのものを利用することは無料である。誰にでも利用可能な形で研究成果が役に立つ場合には、それに対価を支払う人はいない。個別の企業にのみ役立つ場合には、個別企業は研究費を支払うが、誰にでも利用可能な研究であれば、フリーライドすることができるため、民間企業が研究資金を提供することは少ない。

4.なぜ人社系は役に立たないと思われてきたのか

(1)説明不足

 理系の研究の中には、すぐに社会に役立つかどうかわからないものも実際には多い。それにもかかわらず、人社系よりは役に立つ学問であると思われている。それは、理系の応用研究の多くは、企業の製品開発に直接的に役に立つからである。成果がモノやサービスとして見えやすいし、商業化されることが多い。一方、人社系の研究成果は、人々の考え方や社会の制度に影響を与える。こうした影響は非常に大きい。しかし、特定の研究者の論文によって、ある制度が作られたり、法律が変更されたりするという明確な因果関係がないことが多い。様々な人々の考え方に複雑に影響して、社会的な意思決定がなされていくのである。そして、人社系の研究は社会の制度や慣行に影響を与えるため、人々は研究成果を無料で手に入れることになる。

 理系は、人社系に比べて、社会にどれだけ役立つかということを様々な観点から主張してきた。理系の基礎研究者の中には、「すぐには役に立たない」という主張をする研究者もいるが、その場合も「すぐには」という限定が入っていることが多い。なぜ、理系の方が、社会に役に立つことを積極的に宣伝してきたのだろうか。おそらく研究を進めるためには、人社系に比べて多額の研究費がかかるために、資金獲得のための理由を説明する機会が多かったためだと考えられる。これに対し、人社系の研究は個人研究が多く、理系に比べると研究費が少なくて済むものが多い 。そのため、外部資金獲得のために、分野外の研究者や非研究者に、その研究の社会的意義を説明する機会が人社系の研究者は少なかった。個人研究が多かったため、研究チームを組織するために研究費を獲得する必要も人社系では少なかった。実際、人社系の研究者は、研究費よりも研究時間が重要だということが多い。

 人社系の研究には、理系のような実験施設や物品購入のために研究費はそれほど必要としなくても、研究者のポストである人件費には多額の費用がかかっている。特に、国立大学では、運営費交付金の減額によって物件費の削減が先に行われてきたため、人社系の研究者が研究を遂行する上での困難をそれほど感じてこなかった。しかし、運営費交付金の削減が続き、人件費の減額が行われるようになり、それが研究者のポスト削減になってきたのである。この段階になって初めて、社会からの要請に応えていると認識されないとポストが削減されるという事態に直面した。公的な資金をもとにポストを得て研究している以上、その社会的意義を説明する責任は研究者側にある、という認識が人社系の研究者には少なかった。

(2)役に立つという意味

 人社系の研究者は、社会の役に立つという意味を狭く解釈することが多かった。例えば、山口裕之著『「大学改革」という病』(明石書店,2017)では、「企業が求める人材の育成」は大学の社会的責務ではない」としている。大学の社会的責務は、「さまざまな問題についてその背景を知り、前提を疑い、合理的な解決を考察し、反対する立場の他人と意見のすり合わせや共有を行う能力を育てる」ことによって、民主主義社会を担う市民を育てることにあるという。このことは、社会に対して正の外部性をもたらす人材を育成することであるから、十分に社会に役に立つことである。

 しかも、山口氏がいう人材は、現在の企業や社会が求めている人材そのものである。例えば、経団連は「(今回の国立大学の人社系を見直すべきという文部科学省の通知は)即戦力を有する人材を求める産業界の意向を受けたものであるとの見方があるが、産業界の求める人材像は、その対極にある。 」と述べている。「理系・文系を問わず、基礎的な体力、公徳心に加え、幅広い教養、課題発見・解決力、外国語によるコミュニケーション能力、自らの考えや意見を論理的に発信する力などは欠くことができない」、「地球的規模の課題を分野横断型の発想で解決できる人材が求められていることから、理工系専攻であっても、人文社会科学を含む幅広い分野の科目を学ぶことや、人文社会科学系専攻であっても、先端技術に深い関心を持ち、理数系の基礎的知識を身につけることも必要である。」という主張をしている。

 また、経団連は、産業界が人材にどのような資質・能力を求めているかについて、アンケート調査をした結果から「文科系では 「課題設定・解決能力」、理系では「創造力」を求める回答が増えている。技術革新が急速に進む中、自らの問題意識に基づいて課題を設定し、その解決に向けて主体的に取り組む能力を有する人材、また文系・理系を問わず、多様で幅広い知識と教養、リベラル・アーツを身につけ、それを基礎として自ら深く考え抜き、自分の言葉で解決策を提示することのできる人材、すなわちイノベーション人材が求められている。」 とも指摘している

 役に立つという意味は、企業の経営に役に立つや生活の役に立つという目に見えやすいものを想像しがちである。しかし、人々の幸福度を増すことや健康水準を高めることも同じように社会の役に立っている。例えば、ウナギの産卵場所を特定した日本大学教授の塚本勝巳氏は、「「人類が長年不思議に思っていた謎の解答を見つけ、それを広く知らせる」つまり、知的好奇心を満足させる 」ことだと答えている。人々の知的好奇心を満たして、満足度を高めることが社会的貢献である。ここで重要なのは、その研究者自身や研究者グループだけの知的好奇心だけを満足させるのでは、公的資金を用いた研究の説明責任を満たしていないということである。その上で、塚本氏は、「世界的にも資源が激減したウナギの増殖や資源管理に役立つ」、「ウナギの完全養殖の研究に重要な情報をもたらす」といったわかりやすい社会貢献も指摘している。

 カリフォルニア工科大学フレッド・カブリ冠教授教授で基礎物理学者の大栗博司氏は、「役に立たない研究の効能」 というエッセイで、基礎研究がどのような意味で社会に役に立つかを述べている。そのなかで、いつくかの著名な科学者の言葉を紹介している。まず、19世紀に電磁誘導を発見したマイケル・ファラデーが、当時の財務大臣であったウィリアム・グラッドストーンに「電気にはどのような実用的価値があるのか」と問われて、「何の役に立つかはわからないが、あなたがそれに税金をかけるようになることは間違いない」と答えたという。実際、彼の研究が後の電磁波の発見につながり、無線通信という現代社会の不可欠な情報基盤となっている。また、カリフォルニア工科大学学長のジャン=ルー・シャモー氏は、2012年春のスピーチで「科学の研究が何をもたらすかを予め予測することはできないが、真のイノベーションは人々が自由な心と集中力を持って夢を見ることのできる環境から生まれることは確かである」「一見役に立たないような知識の追求や好奇心を応援することは、わが国の利益になることであり、守り育てていかなければいけない」と述べたという。

 さらに、大栗氏自身も「このような研究が精神的な豊かさをもたらすことはわかるが、それが人々の生活をどのように改善することになるのかも知りたい」という大学への寄附をする財団や篤志家からの質問に対し、「興味の赴くままに研究しているのだ」と突き放すのではなく、質問の意図を真摯に受け止めて、基礎科学の普遍的価値について丁寧に説明するようにしていると述べている。その上で、「日本では、数学や科学の基礎研究のほとんどは国民の税金で行われているので、納税者がクライアントになります。その代表者に「十年後にどのようなリターンがあるのか」と聞かれたときに慌てふためかなくてもよいように、日ごろから基礎研究の重要性を広く伝える努力が必要だと思います。」と指摘している。

 2016年8月に国立大学法人理学部長会議が出した声明でも、「基礎科学は今すぐ社会の役に立たないかもしれませんが、いずれ役に立つと、私たちは確信しています。」と述べている。短期的には社会の役に立たないかもしれないが、全く役に立たない研究をしているわけではない。知的好奇心を満たしたり、将来の応用研究に役立たせたりということが期待できるのであれば、それは役に立っている。例えば、人社系の研究で、既に絶滅した言語や社会の研究は、それを直接的に利用する人がいないという意味では、すぐに役に立つ研究ではないが、そうした研究が言語や社会の発展を理解する上での重要な基礎研究であれば、その知見が社会の役に立っている 。

 社会の役には全く立たないで、研究個人や研究者グループだけの知的好奇心を満たすために研究を行っているというのでは、税金を支払っている人々は納得しない。社会の役に立つ研究という意味を、長い時間的視野で外部性をもつ研究であると理解すれば、人社系の研究の多くは、研究の意義について人々を説得することはそれほど難しくない。

4. 人社系の社会的貢献を見えるようにするために

 人社系の研究に限らず、研究者の世界では、研究者向けにその成果を報告することで評価を得てきた。これは学問水準の向上のためには、必要なことであるが、研究費や研究者のポストそのものが公的な資金から出ている以上、学術の最先端の成果を一般に紹介することに学会や大学として積極的になる必要がある。

 そのためには、研究者がそれぞれ一般社会と学術の最先端の関わりについて常に意識することが必要である。また、人社系では他分野との交流が比較的少なく、研究成果や研究内容について、他分野の研究者にうまく説明することに慣れていない。少なくとも近接分野の専門家に、研究内容を理解可能な形で説明できるように全ての研究者がなることが必要である。近い分野の専門家を説得できないのでは、一般の納税者の納得を得ることは難しい。さらに、研究課題の中に、社会問題を解決することを目的にしたものを取り入れるように意識していくことも必要である。こうした努力をすることが若手研究者のキャリア形成にもつながっていく。
 


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