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承認欲求という偶像 (エッセイ)

 日曜のお昼は、中華とネパール料理だった。うちの教会ではいまのところ、一ヶ月にいちどの頻度で料理当番が回ってくる。先週はわたしの番だったけれど、和食は作らなかった。アメリカの教会のポッドラックで食べたような、大皿料理でいつも誤魔化している。日本人、フィリピン人、中国人、ネパール人、オランダ人、ナイジェリア人からなる教会で、週替わりのインターナショナルレストランみたいである。

 食べ終えた皿を片付けに、台所兼礼拝堂へ行くと、ナイジェリア人のKさんがひとりでいた。わたしはこの火の玉みたいな説教をする青年、Kさんのことをよく書くけれど、彼はなんだか書きたくなるようなインパクトがあるひとなのだ。彼の説教の通訳をするとき、わたしは必ずエナジードリンクを用意する。アフリカンパワーに、ひ弱な日本人がかなう筈もない。

 珍しくヒマそうなKさんを掴まえて、わたしは英語で切り出した。言いたいことがあったのだ。

 『あの、今朝のKさんのお説教にも似ているんですけど、いま日本で問題になっている言葉があるんです』
 『Yes?』
 『あの、承認欲求って言って、十代とか二十代の子たちのあいだで使われる言葉なんです。SNSのいいねとかフォローが欲しいとか、認められたいってあがいてるひとが日本にはたくさんいて、最近話題になってるんです』

 Kさんは興味深げだった。わたしは彼に、『インとエン』について質問されたことがある。日本語の出来ない彼だが、英語の出来るお坊さんと話すことがあったらしい。因と縁なんて、教会育ちのわたしも分からなかったが、この火の玉青年とお坊さんの起こすであろう化学反応にわくわくして、頑張って仏教用語を学んで解説した。その後お坊さんと再会してはいないのか、まだ結果は聞いていない。

 『認められたい、っていうのは自然なことではあるね。ぼくも大学でそんな経験をしたよ。その時神さまに、他人と比べるな、と言われた。お前はひとと違うんだから、と』

 ナイジェリアの大学を卒業し、「少年よ大志を抱け」の大学院へ留学しに来たKさんがいう。さぞかし冬に驚いたことだろう。雪なんて見たこともなかったろうに。

 『そのショーニンヨッキュウっていうのは、日本の若いひとだけなの? 年配のひとは悩まないの?』
 『たぶん、若いひとに顕著なんじゃないかと思います。ほんとうはわたしも囚われていたんです。ブログなんかをやってるでしょ、反応が気になってしまって、不健康だなってじぶんでも気づいてて。それで神さまに助けを求めたら、聖書アプリの読書プランで、Idol of approval っていうのを見つけたんです。そっか、わたしは神さまに認められているから充分なのに、わたしは承認されたいっていう思いを偶像にしちゃってたんだ、と思ったんです。わたしが神さまの為に書いていて、神さまがわたしを愛してくださってるなら、全世界から無視されたって構わないはずなのに、って』

 『わたしだけでなくて、きっとこの承認欲求っていうのは若い日本人に刺さるテーマだと思うから、もしKさんがビデオかなにかで説教してくださったら、わたし日本語字幕を作りますよ』
 『シスターフサエは、それをブログに書いた?』
 『いいえ、さっき神さまに明かされたばっかりの啓示なんです。書けるような権威、わたしは持ってません』

 ……そういう会話を、日曜日にした。承認欲求という偶像について。「われわれの社会は、すべてのひとの感情を傷付けないようにと必死である。神以外のすべてのひとを」とどこかに書いてあった。認められるために、じぶんを正しさで固めようとする。わたしは間違えてない、と。じぶんの正しさで。

 わたしは間違えていない、と証明するためにひた走って止めようとしない。誰かを失望させるのが怖くて、駆り立てられている。走って、走って、走って。

 あなたを愛している、と神さまが言っているのに。ひとからどう思われるかの心配を捨てて、わたしがあなたをどう思っているか、わたしがどれだけあなたを愛しているか、その愛のなかに休まないか、と。

 あなたを傷付けるだけの定規は、捨ててしまいなさい。世界中を敵に廻したって、わたしが一緒ならそんなこと構わないじゃないか。わたしはあなたを認めている、認めている、認めている。

 ……と、読書プランには書いてあった。書いてあっただけじゃない、神さまはそうわたしに語っていた。神さまはわたしの文章を認めてくださり、一番のファンでいてくださっている。わたしはそれ以上望むまい。

 


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