【Re】2023.09.09 プラハ
日常とはなんだろう。
ヨーロッパ周遊の間の考え事を残すために始めたこのnote。最初は羽田からロンドンへ向かう機内で、これから始まる旅に想像を膨らませながら、こんなことを書いていた。
あれから約二週間。友人とキャンプをする約束のために帰国のリミットが決まっている私にとって、折り返し地点を過ぎたところだ。
ロンドン、パリ、ブリュッセル、アムステルダム、ベルリン。5カ国を経て、突き刺すほどの日差しに照らされる6カ国目、プラハの石畳を歩いていたとき「このままどこかに行ってしまいたい」と思った。どこかに来ているはずなのに。
ヨーロッパに来て、さまざまな国で2週間を過ごしたけれど、良くも悪くも何も変わらない。観光をする日もあるけど、ホステルでぼーっとしたり、移動に1日を費やす日もある。想像以上にスムーズに過ごせているし、トラブルも少ない。お金や手続きのことは置いておいて、このままここで暮らせと言われたら、たぶん、問題なくできる。
日本にいようが海外にいようが私は私のままで、社会も世界も滞りなくまわっている。私は異邦人だけど、住んでいる人との境目は、本当はすごく曖昧なのかもしれない。
じゃあ、私はなんのために、ここまで来たんだろう。日本で得られないものはあっただろうか?ある。この景色も、空気も、触れるものも。確実に違う。
だけどそれは、本当に極端な話、全部「ただの世界」で、ある意味おんなじだ。
初めて一人で海外に行った20代半ば。私は会社の社長に「かまちゃんは駐在は厳しいね」と言われていた。(何度かnoteに書いているが、東南アジアのインバウンドを専門としたプロモーション会社で、現地とのやりとりや出張がたびたびあった)
それを聞いた私は「ですよね。ていうか行きたくないし」と思っていた。それくらい、自分に海外で生きる適正、というか環境への適応能力が低いことを自覚していた。
それが今、エリアは違えど「生活できる」と思うまでになった。これはきっと、普通に考えれば成長なんだろう。
でも、さみしい。
とても、さみしいのだ。
モロッコの時のように打ちのめされたい?
やっぱりそれも違う。
この世界に、本当の意味で生きれる場所なんてないのかもしれない。そんなゆるやかな絶望。
どこへ行っても自分を消耗することをやめられず「普通に生活してしまうのかもしれない」という予感。
まあ、別に理想郷を探して旅に出たわけでもないんだけど。
たとえ場所が変わったとしても、私が自分の裡に飼う自分に対する嫌悪と無価値感はついてまわるし、それでも普通に生活して、日向を歩けるこの世界は優しいな、とも思う。
晩年、白内障に悩まされたモネ。
眩しすぎる世界が、画家の心を苛んだ。
それにすこし自分を重ねたりした、プラハの夕方。
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