あまりにも強靭な

「旦那に世間話でもしようと庭先に足を踏み入れた僕は障子から垣間見たその雰囲気に気圧され
ただその畏怖にへなりと座り込んでしまったのです。罪深き僕の眼はその様子を映してしまいました。
なんの因果かおびき寄せられ引き寄せられ
僕はことの次第を覗き見ているのです。
白状いたします。」

青年が目撃した障子の中は次のようであった。

まだ障子から漏れる光が幾分か残る
冬の日の昼下がり
所々藺草が傷んでいる畳の間で
男と女は対峙していた。
間には一枚の紙。

紙を挟み囲碁を打つかのように改まった様子で男はどしりと構え
女は居心地の悪そうに下を向いている。
この二人が夫婦ということを知らなければ
下女を叱る旦那というようにも見えなくはなかった。

重苦しい沈黙を破ったのは女であった。

旦那さま

わたくしは
別れとうございます

ええ、ええ
別れとうございます
いえね、貴方が悪いんじゃないんですのよ
悪いのはわたくしでございます

わたくしは、貴方といても
どうしようもないほどに
侘しいのです

貴方は
わたくしがいたところで
何もお変わりないことでしょうね
いなくても
お変わりないでしょうね

だから
お別れ申し上げますわ

ええ
貴方は何も悪うございません
わたくしの思い上がった心
それがいけないのです

貴方の包む空気を
少しでも変化しうると思っていた
その自惚れた心に失望したのですわ

ええ、そうです
わたくしは貴方の孤独に惚れ申しております
それは間違いありません
そうして今でも
貴方の孤独を切望する気持ちは
何一つ変わりはしないのです

だけれど
貴方が隣にいる時
わたくしは傷つくのでございます
自らの孤独を意識せざるを得ないのです
わたくしは貴方とは違うと
強く感じてしまうのです

ええ、勿論
貴方にお慕い申しております
貴方といる時に感じる
その孤独さえ
わたくしは愛しております
そこに惹かれてもいますわ

今だって
こうして話していて
貴方は顔色一つ変えないですものね
わたくしが何を言おうと
貴方は貴方でいること
それは堪え難い魅力です

ええ、こうして申し上げられることが
どんなにありがたいことかは
身にしみてわかっているつもりです

わたくしばかりが動揺しているのも
予見していたことですわ
これはわたくしの力不足なのです
貴方の心を一寸も動かせなかった
わたくしめの自白なのです

どうかわたくしの未熟さを
これ以上突きつけるのは
おやめくださいまし
ええ、貴方にはその自覚はないことでしょう
だってわたくしが勝手に感じていることですもの
貴方が知りうるはずありませんね

お別れ申し上げますわ

わたくしはわたくしの孤独に戻ります
生ぬるい無益な独りに帰ります
貴方といる時の
鋭利な孤独
それは何よりも大切でした

わたくしは弱い女ですね
刃物はそう何度も飲み込めやしなかった
血だらけなのよ
貴方を
吐血するまで切望し
貧血になって別離を思う
愚かしい女です

どうか見限ってください
お捨ててください
貴方のお得意なナイフでもって
わたくしを切り裂いてくださいませ
その血に濡れて
涙を紛らわせたいの
最後のお願いにいたします
我が儘を言わせてくださいな

愛していましたわ
愛していますわ
貴方を
貴方の孤独を
わたくしの脆弱な孤独と一緒くたになり得ぬ
崇高で恐れ多い
貴方の孤独をお慕い申しております

だけど
わたくしめには

わたくしめには、

女は突っ伏してしまった。揃えられた指先は僅かに震えている。男は殆ど口を挟むこともなく女の科白を聞き
一言「うむ。」
と頷いたのちは押し黙っていた。
そして静かに頭を下げて居る女の前に署名した紙を置いた。

「僕には見えていたのです。

彼は彼女の告白じゅう
慈しみの眼で見守り続けていたことも。

彼女が顔を乗せる着物の袖が
じわじわと色を濃くしていくことも。

僕は呆けていて彼が部屋を出ていくまで障子の前に縛り付けられてしまって。

襖を開ける寸前にちらりと振り返った
彼の苦々しい表情を知るのは僕だけなのです。

彼女が襖の閉まる音を聞いて表にあげた
あの顔が濡れて赤に染まっているのを知るのは僕だけなのです。

僕は罪人です。

あまりにも臆病でした。
あの二人に関わっていくだけの勇気がなかったのです。障子を開けて一歩踏み出す力がなかったのです。

僕は後ずさって逃げました。
愚かしいことに。

彼女が山籠りして亡くなったことも
時を同じくして
彼があの和室で自決したことも
僕には見えていた気がします。

あの二人には
狂おしいほどの愛があったに違いありません。
ただ孤独を見つめ続けた末に目が眩んでしまっただけなのでしょう。

人は愛する相手を得たと思った瞬間に埋めきれない孤独に刺され続けるのでしょうか。人生が孤独であるのにはなんの変わりもないのに。

愛によって自らの孤独も相手の孤独もその姿を明るく変容しうる。

そういった思い込みがあの二人に悲劇をもたらしたに違いありません。

そうして仲の好い二人を同時に失った
いや殺してしまった僕にも
鋭い刃が突きつけられているのですね。

人はみな孤独。
僕はこの孤独という名の痛みに耐えきれるのでしょうか。

あの二人の孤独を身勝手にも引き受けている気がしてなりません。

重い黒い影が僕にはついていて生きていることを実感せられます。有り難くて痛いです。

死ぬまで孤独だから死を選んだのでしょうか。

いえ僕は理解していますよ。
悲しみに負けたきりにならずに一人で立ち上がることが孤独の積極的な力であることを
分かってはいるのです。

だけど今度ばかりは押しつぶされそうで自信がありません。
僕がひと月の間連絡を寄越さなかったらどうか亡き者として扱ってください。」


青年の吐露を聞いた老人は数ヶ月間手紙のないのに慌てて捜索願を出した。

程なくして見つかった彼は
お茶屋の娘と逢引しているところであった。

つくることへ生かしてゆきます お花の写真をどうぞ