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再生記(3.27)おばけなんて

やわらかくて、花が咲くようだなあ、あの人たちは。

所属してるとこの、好きな先輩方がほとんど卒業してしまった。さみしい。既に卒業した人も集まって飲み会かと思ったのに、そんなことはなかった。

卒業してゆく人たちを見るたび、同期から離れてしまうことを考えるたび、所属し続けていたいな、と思う。本当は。まあ、それでもいつか、は来てしまう、きっと。ずっといれる場所じゃないことはわかっている。

ようわからん、うん。
コミュニティを狭くするつもりはなかったし、執着しないと思ってたけど、あれだ、今は抜けるのがこわいくらい。

周りと同じでありたく思ってしまうし、遅れること=置いていかれること、になってしまうのがこわい。


数日間、寝落ちもあって文章を書くことができなかった。
たぶん、物を考えるのが怖かったから。
自分を見つめるとか、ほとほとヤになって、引きこもってしまう。

将来、
本谷有希子の小説原作の、趣里が主演になった映画、『生きてるだけで、愛』の主人公のようになるんじゃないかって恐れている。
主人公曰く、過眠症で、社会不適合者だという。恋人の家に居候して生きている。
私がなった場合は身寄りのない、居候する相手もいないやつ。
あの映画を見てから、自分は社会不適合なのでは、と暗示がかかったようになった。こわくて映画を見てから震えていた。

別に一人なわけじゃない、けど頻繁に電話をかけてくるかつての同居人にも頼りたくない。しかも、かつての同居人と何気ない電話していても「仲間がいるから大丈夫」とは安心できない。

病院に行けば、「まとも」じゃないことを保証してくれるのか、とも思うが、もし「まとも」と判断されたらどんな顔をしたらいいか。
つーか「まとも」とか「普通」とか、そんなもんねーんだよ、が私の信条なのに、今更こわくて偽装したくなる。

世間話してるとセウカツの話になってざわざわする。時の止められた世界はないのか。やだなーって。
美容室行ったらセウカツの話になったので、無理やり「どうして美容師になったのか」を聞いた。すっごく楽しい。高3の時も聞いてたわ、私の話はいいから、話しててほしい。楽しく聞くから。

セウカツのアドバイザー的な人に「人と比べるな、進捗は人それぞれ」って言われたけど、そもそも人と比べる競技な気がする。

「向かう」のはいいけど、「逃げる」はダメなような気がして、京都に行けない。
どこか遠くへ、行きたいのか、逃げたいのか、それで全然違うよな。京都に行きたいのかすらよくわからない。

宇宙にぽっかり浮かぶワンルームのなかで、世間の情報をシャットアウトして布団に篭っている。

夏休みの宿題みたいに、逃げても逃げても追いかけてきて、31日はやってくる。そして不登校もしたいわけじゃない。

これぜーんぶ、青年期の悩みですね!!!って大雑把にまとめる人もきっといて、私も自分の思考の分析のためにそういうことを探したりはする。私だけが思うことなのかと。けれど、どんな場所にも自分のこうしたら大丈夫!は書いてない、正解がない。


アッパラパーに昼間と言わず朝からお酒でも飲んで蕎麦を頭からかぶって生卵ぶつけて空を自由に飛びたいな!!!!

つくることへ生かしてゆきます お花の写真をどうぞ