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すずらんとうふふ
先日、下北沢で山本健介さんのテガキゴト展を観に行った。
ジエン社主宰の山本健介さんは会場にいて、話し込んでしまった。
気に入ったテガキゴトは持ち帰ってもよいということで、お賽銭を入れていくつかいただいた。
ふりかえったら生と死、人生に関するテガキゴトを持ち帰っていたことに気がついたよ。
あとは日向坂。山本さんのnoteのサムネイルに使ってる二枚をもらってしまって後からこれは作者の元にあるべきではと思った。間違えた。
中でもお気に入りのテガキゴトが最初のもの。
死ねばちょっとだけ
ほめられるかもしれないという
希望だけおしょうゆにして
トウフを食べている。
死ねばちょっとだけほめられるかもしれない。
ちょっとだけ、あわよくばほめられるかも。一読しただけで底にあったものを匙ですくい出されたような気がした。
めったに口には出せないこと。
すごく辛かった昔、奥底に封じていたもの。
「死で何かを知らしめることができるのではないか」
「死ぬことが結果的に誰かを救うことになるのでは」
といったような。そういう考え、甘い、考え。
まあ私の自分語りは山本さんが書いた経緯とは違うだろうけど。
そういったことを考えた経験があったから、最初に手に取ったんだと思う。
幾多の紙がある中で、真っ先に手に取らせたこの紙の引力は冒頭の二行にあった。
「死ねばちょっとだけ
ほめられるかもしれないという」
でその後に続く、おしょうゆとトウフ。黒と白。死と生きる。
「希望だけおしょうゆにして
トウフを食べている。」
生きるために食べる、そのトウフ。味気ない白いトウフを、美味しく食べることができるのは、おしょうゆがあるからで。
そういった一種の黒い希望も、白くて味気ない人生を彩るには十分なのかもしれない。甘くない、しょっぱい、おしょうゆがトウフにはぴったりだから。
死んだらちょっとだけほめられるかもしれないけど、
生きてればすごくほめられるかもしれなくて。
だから、質素な食事だけど、生きて食べる。
言葉もいいが、テガキゴトならではの、手書き文字の味がいい。
特におしょうゆの文字、トウフの文字がいい。
ピータードイグ展への批評文を読んだ時にドイグの絵が持つ特徴として「認知する際の遅さ」があることを知ったんだけど、それを思い出した。
おしょうゆは「おしようゆ」に見える。
「おしようゆにして」っていう「しよう」「して」の入り組んだ感じの認識の遅延。「お」しょうゆっていう丁寧な言い方も温もりをもたらしてる。
豆腐ってかくと硬くて四角い無機質な感じだけど、カタカナのトウフになったら一瞬「ウフ」を先に見つける。
微笑みの隠れる「トウフ」。
希望をかけてトウフを食べますよ。
手に取って、これは持ち帰るぞ!と思った後、ある短歌を思い出した。
「食うためにすずらんを買う。店員がまた来てくれと言うので生ける。」
長谷川伝
http://utanohi.everyday.jp/open.php?no=1836d&id=16
この短歌につけられた芍薬さんの評で腑に落ちた短歌なので、そのまま読んでほしい。
「すずらんには毒がある、かなり強い毒で死に至ることもある。それを食うために買うということは自死願望があるのでしょうか。ところが店員さんの一言によってがらりと物語の道が逸れる。選択肢Aの食うではなくBの生ける、へ。生ける=主体が死から生へと舵取りを変えたさまを想像させます。そのすずらんが枯れる頃、主体はどんな選択肢をとるのか非常に気になりました。
すずらんに毒があることも知らなかったが、このうまさたるや。
しばらく読んでいなかったのに諳んじれたのは相当で、お気に入りの短歌ってこういうものをいうんだろう。
生と死の危うい感じ、白(トウフ、すずらん)、死への希望や毒といった連想から思い出されたのだろう。
状況の違うふたつではあるが、何だか、ホッとするような、手触りのあるような感じで好きだ。
曇り空の穏やかさ。これからどうにでもなりえる不安定さと、とりあえず今は雨ではないという安心。
きっと生きているのだろう。生きていくんだな。っていうそういう。
それにしても長く書いてしまった。
私が山本さんのテガキゴトにつらつら書いていたのは、この歌を味わった時みたいな感動があったからなのだな。
いい言葉はつい人に語らせてしまう。
出会えてよかったなあ。
つくることへ生かしてゆきます お花の写真をどうぞ