sadfullcombo

最近あの子のことについてしか書けていない。
あんまりそのことについてばっかり書くのも、全く事情を知らない人も読むかもしれないのだから、よくないなーと思いつつ、特に他に書きたいことがない。書けない。

あの子をきっかけに人にたくさん出会う。その人たちが書く言葉を読む。
あの子がいなかったから出会わなかっただろう縁。
はしごを外されたようだ、今あの子がいなくて。

自分が演劇をやっているというと、「じゃあこの人は知ってる?」といって聞いてくれたし、あの子のいるイベントにいってまた人と知り合った。

まったく、どういう気持ちでいたらいいんですか?

小学生か中学生くらいの時に、生物濃縮を習って、人の感情にも濃縮があるよなーと考えたりしていた。
主に怒りについて。教育の本を読んでいたら、怒りは伝染し、立場の低いものに流れていく、とあった。おじいちゃんが娘である母親に怒れば、母親は息子に怒り、息子はペットをいじめる。そんな構図がマンガで描かれていた。この場合、家庭内で生まれた怒りっていうのは濃縮されていってると思う。ギスギスした家の中で、直接怒りの言葉を投げられなくても、ストレスはかかっていく。そして最終的に少し上の立場の人から直接怒られて、処理できない怒りを誰かにぶつけていく。

そういう風に、感情が関係性の中で受け渡されたりしている構図を考えてしまう。
あの子の場合、いなくなったことで悲しみが波及している。あの子の家族から友達から知り合いまで。

それに加えて、私の場合、友達が悲しんでいる、というだけでまた悲しい。悲しみの連鎖。
元を探れば、あの子なのかもしれないけど、恨み言をいうことも叶わない。
もっとも、大元は社会だとは思うが・・・

何らかの防衛機制かな。深くまで考えると苦しくなるから、憤りという浅瀬で止めようとしているのか。安直。

事情を知っている人に会いたい、話したい、というのは、いったいどういうことなのだろう。
自分の知り得た断面を共有し、相手の知り得た断面を聞き、あの子の立体を脳内で補完しようとしているのかな。
増えることのない思い出だけをなぞっていったら、君はかすれて平面になってしまう。指からこぼれ落ちそうな思い出を一つでも忘れないように、誰かと一緒に覚えていたい。

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