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破壊と想像

今朝、四時半に自然と目が覚め、いつものように一時間ほど布団の中でスマホをいじってみたが、二度寝しなかったので嬉しくて起きる。今日は活動的な一日になりそうだ。最近、やるべきことを全て終わらせられたから、後回しにしたこととかやりたいことをしたい。まずは図書館に行って文章が書きたい。JUDY AND MARYをイヤホンで聴きながらうきうきと準備をする。

結局、その後家事や雑多な作業などをやっていたら、図書館に着いたのは三時になってしまった。でもいい。とりあえずパソコンさえ使えれば。書きたいことがいっぱいある。下書きにたくさん眠っている。

 

数日前にも課題のために訪れた馴染みの図書館。二、三日前は、改修工事のためか閉館していたが、今日はやっているようだ。

時間に余裕があるから、図書のある場所に直行せず、ロビーを一周する。

ロビーの奥の方はなんだか閑散としていた。どうやら、図書館内にあったカフェは去年の秋に閉まったらしい。赤字だったそうだ。一度利用しようと思っていたのに残念。行ける時に行かなければ、店や場というものはいなくなってしまう。だから行きたい場所には少し無理をしてでも行かなきゃならない。改めて肝に銘じる。

図書館のゲートをくぐる。目指すは上の階の机と椅子だ。そこでパソコンを使いたい。直進して階段を登る。

階段の踊り場に飾ってある、絵画が青いビニールシートで包まれているのに少しうわっ、と思った。でも工事ってそれだけか、とも思った。間違い探しみたいなちっこい変化だなあ。壁の一部が青くなったのなんて、些細なバグに過ぎない。

踊り場で二手に分かれる階段の一方は封鎖されていた。仕方ないのでいつもは使わない方の階段を上がる。階段を登りきらないうちに、三階の景色が視界に入った。

シャッター。積み上げられた椅子。剥き出しのコンクリート。冷たく暗い照明。 人気のないカウンター。

違う、違う、違う。いつもと違う。鼻がツンとした。

なんか、嫌だ。

 なにもかも、私の求めていた穏やかな図書館ではない。なんにも私を安心させてくれない。いつもと変わらないやわらかな薄紅色の絨毯でさえ、私を和ませることはなかった。

どこかしこも不自然で、不安定で、気味が悪い。

あと三段ほどで三階に着くというのに、踏み込めず、呆然とした。

凄惨な事故現場だ。

北千住BUoYという銭湯を改修した劇場で「スワン666」というお芝居を観た時の気持ちがフラッシュバックした。

凄惨な事故現場。

名前を仮にでもつけると少しは落ち着く。うん、ここは凄惨な事故現場。そういうところだ、そうなったんだ。私の知らない間に。意図的にそんなセットを設計されているのだ。

 シャッターの中の世界に目を凝らす。私は家が取り壊されるときの現場ぐらいしか目撃したことがない。だから、想像の材料に乏しい。けど、直感として、シャッターの中では、破壊が行われているのだろうと思った。おそらくシャッターの奥には見えないショベルカーがあるのだろう。後光のさすような、圧倒的力を持った重機。床に散らばる図書、なぎ倒された本棚。鉄の腕が振り回され、何もかもぐちゃぐちゃになる。

だけどいつの日か、また整理整頓され、混沌などなかったかのように澄ました顔で私を出迎えるのだろう。


見渡せた三階の広間は、新しい壁が出現し、人一人分の隙間だけが区切られ次の空間への抜け穴になっている。普段の大きさから極端に狭いので、不思議の国のアリスでの「ネズミ穴と同じくらいの小さな通り口」が思い出された。ここにはドアなんてなかったし、ここと向こうは同じ空間で、部屋でもなんでもなかったのに。

隙間を通り抜けると、目の前には私が三階に上がった目的である、机と椅子がある。

はずだった。通り穴を抜けても、残念なことに平然と不自然が居座っていた。机は新聞が占拠して、椅子は撤去されている。近くに人間の姿はなく、机の上には整頓された灰色の紙束が積み重なっている。とうとう紙が意思を持ち机を奪った。新聞は人間たちを追い出して、自らの居場所を獲得した。そんな風に見えた。

気持ちが悪かった。またも鼻がツンとした。異様だ。悲しい光景だ。

だんだん、避難所を見ている気分に変わっていった。きちんと並んだ新聞は、配給でももらうのだろうか。きっと馴染みの場所がいつもと違う使われ方をされると、避難所に思えるのだろう。小学生が駆け回っていた体育館が、老若男女のひしめく様に一変したようで。

こんなすぐに避難所が思い出されるのは、この前、避難所が出てくるお芝居を観たのも影響しているな。範宙遊泳の「うまれてないからまだしねない」という作品。観劇後、世界が壊れていく恐怖に囚われて、怖いと何度も心が悲鳴をあげた。 

去年、出身地で起きた災害を思い出す。自分はその時今住んでいる場所でお芝居の本番があった。遠くにいすぎて、私のところには全く被害がない。ただ家族や友人の連絡、テレビ・ネットの情報を眺め、おろおろすることしかできなかった。ここは、あの時私が目撃していない避難所だ。見てもいないくせ、そう思った。想像の中の地元の避難所が、図書館の机と重なり合う。グロテスク。災害を逃れた私だから、まざまざと見せつけられている。

ごめんなさい、と思う。謝ったってどうしようもないけれど、私の身近な人たちが痛みを味わったのに、自分は遠くにいただけで被害を受けなかったのが、なんだか罪に思える。その感覚が、あの時ぶりに掘り返された。

二年前に観た、ままごと「わたしが悲しくないのはあなたが遠いから」というタイトルが響く。もううっすらとしか覚えていないけれど、悲劇と距離の遠さについてのお芝居だった。主人公の大切な人には年を重ねるごとに大きな悲劇が起きる。その度主人公は心を痛めたけれど、二人の距離が広がっていくうちに、主人公は近かった頃よりもその人の悲劇に涙を流せないことを気づく。そんなような内容だったと思う。

ふりかえって検索してみたら戯曲が公開されていた。だけどリンクが切れていて、もう読めない。リンク貼られたの二年前だからかな?わたしが読めないのはあなたが(時間的に)遠いから。これには涙が流せると思う。

「スワン666」と「うまれてないからまだしねない」の観劇後の衝撃を引きずりながら、恐ろしい机たちを写真に収める。さながら私は戦場カメラマンだ。

私と同じところに立っている人たちは、すんなりこの新聞の侵略を受けいれて、さして気にも留めていなさそうだった。無関心。人間の領域が侵されてもどうでもいいらしい。平和主義を装ったどうでもいいというつき放し。もしくは大人な諦念か。どっちでもいい、どうして目を見開かないんだろう。あの人たちにとっては、きっとカメラを向ける私の方がずっと異様に違いない。

本の侵略やら避難所やら書いたけれど、ちゃんと視界の端には、配架場所の変更を伝えるプレートが入っている。でも自分にとっては、人間の意図はどうでもよかった。それに新聞は大抵読まないし。ただ、その光景が、放って置けないほど衝撃だったのだ。これが一時的なラックや棚に収納されていたなら、ここまで気にしなかったのに。ああ、図書館の人だって、こんなことで動揺する人がいるなんて思っていなかったはずだ。

ある時自粛された津波の映像の様に多くの人への配慮が必要な光景ではない。当たり前に、スペースの関係で机の上に並べた。ただそれだけ。なのにどうしてここまで思いが巡らされてしまったのだろう。自分の敏感さを思う。しかし私だってこんなに連想したことなどなかったのだ。冷静な見立てとは程遠い。直感があらゆることを思い起こさせる。

突然、眠気覚ましとして数十分前に飲んだカフェオレがお腹をキリキリと攻撃しだした。あんなに美味しく飲めていたのに。飲めるようになってきたと図書館へ向かう道すがら得意げになっていたのに。やはりコーヒーは私の体質に合わないのか……

ええい、これは図書館の悲惨な光景のせいだ。身体はストレスにすぐ影響を受けるから。

重たい気持ちとお腹をなだめながら、歩みを進める。どこか、人間用の机や椅子はないものか。

案外すぐ見つかった。新聞用の机の裏ではすでに人間たちがいつも通り使っていた。その先の机も、全て人間が専用していた。隅の席に鞄を置く。よかった、ここから先は安全だ。
そう思ったのは束の間だった。そんな簡単に平和と混沌は線引きされたものではなかったのだ。安全基地の机から本棚の林を抜けると、広場につながるはずの場所には灰色がかったシャッターが。

無表情の壁が通せんぼをしている閉塞感。私はここにシャッターがあったこと自体知らなかった。ちまっと光る非常口のマークは頼りなく、逆に不安を募らせる。

シャッターの前に作業員がいた。ヘルメットをかぶり、壁の色と同じようなくすんだクリーム色の作業服を着た二人。ピピーと音。レーザー光。なにやら機械を操っている。不気味。

普段作業服など見ないから、テレビでの何年か前の災害の映像が思い出される。なんだかシャッターの向こうで恐ろしいことが起きているんじゃないかと思う。例えば、床がくりぬかれて巨大な穴が空いていたり、その穴が宇宙空間につながっていたり、世界が終わっていたり。見えない空間というのは無限に恐ろしさを引き出すことができるんだろうな。


きっと、こうして簡単に世界は終わってしまうのだ。

「うまれてないからまだしねない」観劇の影響が強くあることがわかってはいるが、恐怖を呼び起こしたのは確かで。

この、図書館の改修工事から、ぼろぼろと日常が崩れ出し、蟻地獄的に私は異世界に足をつけてしまう。当たり前の絨毯は、知らない間に翻されて、私に裏の面を踏ませる。何もかもが終わって、平和などどこにもない。このシャッターの裏で何が行われているか、私にはわからない。知らない間に、私の日常を構成していたものは姿を変えて、有無を言わせずに影響を与える。

いつ天変地異が起こってもおかしくないな。この今日や昨日が、明日も地続きにつながる保証なんてどこにもない。だって現に図書館は数日前と変わってしまったのだ。私もジュディマリの気分からチャットモンチー「世界が終わる夜に」や、やくしまるえつこ「ノルニル」の気持ちになってしまった。


さようなら、図書館。今度は私の知らない顔をして会うことになるのね。怖いな。

できるなら、お前は優しい顔を装っておくれ。私は恐怖に慄いて死ぬくらいなら、何も知らずにのほほんとしていたい。いつか終わるとわかってても、幻を見続けさせて。

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