冷静病

熱中が足りていない。
・・・演劇をしていないと?
とにかく、何かに追われていないと、自分の中を見つめてしまうのでよくない。日記の研究を通して、この時勢では内側を見つめるのをよそうとしてる。
しかし、自分を見つめないと文章は書けないので、八方塞がりだ。

演劇を続けるのかどうか、最近よく聞かれる気がする。
最近は毎回答えが変わっている。
やめたいよ、やめたくない。

私には、憧れている人がいて、その人の道の歩み方をずっと追ってきた。
その人はプライベートを充実させるために、比較的時間の融通のきく職を選んだ。結局、仕事の刺激のなさ、合わなさから、数年で辞めたと聞いた。今は全力で刺激的な好きな仕事をしている。
本当にかっこいいよ。経済的なものが厳しいのだとしても。

あの人の仕事がうまくいかなくなったり、食べていけなくなったりした時のためにも、自分は働いて、自分の借金を返しておきたい。
きっとあの人は頼ってくれないだろうけど、私はファンとして余裕を持っておきたい。いつか何かで返せるように。
「楽しく生きる」を体現して、光のように現れた人。これからを生きていく想像ができないときに、あの人が現れたのは希望だった。
あの人のような歩み方をすれば、あの人になれると思っていたけど、結局全然違うようになってしまった。きっと互いにコンプレックスを持っている。
比較をされてきて、ずるいと思っていたけど、あの人が切り拓いてくれた道に沿って、歩けてしまった。きっと獣道を、いばら道を、舗装してくれなければ、私は街へはいけず、森の中だ。だからあの人には、何らかを返さないといけない。

そのためにも、働き続ける必要がある。
金銭的余裕を持つためにも、あの人とは違うオリジナルな道を切り拓くためにも。
働きながら、演劇などの刺激的なことをし続ける。

最初に演劇を続けるかどうか聞いたのは親だった。
その時はきっぱり続けないと答えていたんだった。「市街劇をやったらやめる」と言えていたんだった。
まだ市街劇はできてないけど、きっと市街劇を終えてもやりたいことが見えてくるよ。
ずっと前は自分が主役の劇を。その次は自分の脚本演出の公演を終わりにしていたんだから。それをやったら、市街劇をやりたくなった。
もう終わりが見えないよ。
演劇がこわい。自分が演劇に負けて、せっかく手に入れた職を手放すのではないかと恐れている。嫌いになりたいと思う根源には、そういう恐れがあったと最近気がついた。

演劇を嫌いになる道は最近、無理だとわかってしまった。
自分の演劇の集大成をやったところで、ほしいものが増えると気づいた。
なにより、演劇を一緒にやっていく仲間も出会ってしまった。
だから、共存しないといけない。
演劇と共存できる道を探らないといけない。
爆発せず、かと言って嫌いにもならず、じわじわと発散できる道を。



コントロールできる好きで止まっていられると思っていたのになあ。やめようと思ったら、やめられる好きで。
自分の憧れる人たちは、大抵冷静で、感情が荒ぶったりせず、穏やかなのだ。自分の支配下に、理性の元に、感情を置いている。激情の人に囲まれていた時があったから一層眩しく見える。自分もああなりたい。
脳の構造としてそれが錯覚であるとはわかっていても、そう見えるのだから仕方ない。
だからこそ憧れる人たちの荒ぶる感情を捉えたいというのはあって、その人たちが感情をあらわにする瞬間というのは大変魅力的だ。
「あんまり笑わない人を笑わせたら嬉しい」と小学校の時お調子者が言っていたが、本当にそうなのだろうと思う。
自分のせいで、感情が動いてくれたらいいのに。いつも冷静でずるい。
どうして自分ばかり感情が揺れなくてはならないの。私だって余裕を演出したい。そういうところが腹立たしい。何もない、何も気にしていない、という顔を素ぶりをしているのが嫌なんだ。そういう嫌悪すら、何も抱いてくれていない、抱いていたとしても表出せずにいられる、その余裕が憎たらしい。
困ってほしい、困らせたい。怒ったり、悲しんだり、声を荒げたりしていればいいのに。周りにいた激情の人のようになってくれたら、どうでもよくなれる。私の手のひらで転がされていればいいのに。転がさずとも、勝手に転がってゆけばいいのに。
自分の中の興味が全くなくなってしまえばいい。そうして、なにもかもを無視して、平然と、冷酷に。
私の無関心に、傷ついて。

私がどうであろうと、無傷でいられるあなたのことが、嫌いです。
だから、傷つけてあげようと思う。
痛がってくれ、泣いてくれ、痣や腫れに苦しんでくれ。ボロボロになってくれ。私のことを恨んだり、妬んだり、いろんな感情の渦に飲まれてしまえ。
それくらいしてくれないと、私はあなたを許さない。
私のせいで、傷ついてもくれない人よ。


他人に、縁を切りなさいと諭された。
そんなことってあるんだな。
私とあの子の関係を、会って3分もしないうちに判断されて、縁を切れっていう。
だって私はあの子のことが好きで、だから会いに来た。話したかった。そのための時間とお金と機会。
そりゃあ、あの子の縁もゆかりもない土地に来て、呼び出して、と言ったのは悪かったよ。でも、そういうもんでしょう。
あの子には迷惑だろうなとは思っていたけど、だってここは私のようなもののためのところでしょう。
代弁してよ。

私はあの子と話すことができなかった。4000円をお札やお守りに変えた。
夢にも会わない。
あの他人は、私にあの子のことを考えるなと言った。書くな、思い出すな、とも。あなたはまだ若いから、なんてのは理由にならない。私に残された時間がどうであろうと、あの子を思い出したっていいはずだ。だって私は忘れないことを望まれているはずで。それも否定されたけど。

他人に言われたことをちょっとだけ信じてみたけれど、どうだか。確かに、楽だったかもしれない。でも、今だって「一番好きだった人」として思い出すのはあの子だよ。どうして、やめなくてはならないんだろう。

関係が悪いのか。どういう関係で?という答えに、特別な名前を持たないから悪いのか。血もつながってはいないけど、じゃああの子は。

あの子のことを何か書くのをやめようと思った。確かに、やめるタイミングは失っていた。他人のストップを受け入れてた。

もう、本当にもう、あの子に抱いたみたいな熱中はさ、なくなるのかなあ。
あの子が大事なのか、あの子のことを大事に思う自分が好きなのか、グロテスク。
だいぶ後者ではあるんだと思う。浸っていたい、あの子を想うと泣けるから。
数年前の演劇で、物寂しい演技をするシーン、あの子のことを思い出していた。そうしたら、演技がよくなったと言われたからだ。稽古期間中に、会えなくなるとわかったあの子、それとなく誘ったけれど、公演を観に来なかった。あの寂しい気持ちを、想っていた相手には一度も届けることなく、演劇の幕は降りた。

好きだったなあ、っていう時のあの子はずっと過去にいて、そうして未来を見ることはない。変わっていくのは私だけで、記憶の中のあの子が都合よく編集されてしまう。当時はもっと醜くて、互いに。それを忘れてしまうんだな。

他人に、やめろ、と言われたかったのかもしれない。周りにいる人は誰もそんなこと言わなかった。私に執着をきっぱりやめろと言わなかった。悲しみに寄り添って、一緒に泣いてくれて。あの子のこと書きたいなら書けという人もいたし、思い出し続けるのが残された者にできることだという人もいた。忘れるのを怖がる私に、きっと忘れることはないと言ってくれた人もいた。

あの他人は、その全てをひっくり返した。いつもは人に話さない執着を話したから、止められたのかもしれない。あの他人が特別なのではなく、周りの人も打ち明けていたら注意するほどの執着なのだろうか。
あの子に会いに行ったけど会えなかったと、言うのをやめた。
後ろめたくなった。あの子のことを忘れないでいることが、執着することが美しいとすら想う節があったけれど、その醜さをずぶりと刺されたようだった。
そうだよ、自分はずっとずっと醜いよ。自己満足だ、全て。あの子に会いにいく、忘れないでいる、怖いんだ。自分を見るもう一人の自分が、会いに行く行為を、物語みたいに消費している。あの子は出会ってからずっと美しい小説みたいでさあ。きっと汚い部分を書かないでいる。
あの子の人間不信が加速しないように、あの子のことを忘れないでいようと思っていたけど、そんなのはどうでもよくて、自分のことを信じたかっただけかもね。自分のあの子に対する好きは、いなくなったからって失われるものではないと。

自分はいつか「愛する」ということをわかってみたいと思っていた。あの子に対する気持ちが、あの子のことを覚えていることが、「愛する」に一番近いと思った。

いつまでも、「愛する」がわからない。
「両親の愛の元」「愛されて育った」とか、そういう言葉が気持ち悪い。
でも台詞としてなら気持ち悪さを忘れて発話できてしまう自分にも驚いた。
愛される、がよくわからなくても、愛するなら自分の行為だしやれるかなと思ったけど、結局だね。
愛することもよくわからない。
愛することは技術だ、という。だから、その技術を高めていきたい。

ただ、いまはなんでもいいからインスタントな「好き」に脳を支配されてみたくもある。お湯入れて3分で熱中、君のことしか考えられない!みたいな。感情日記の進みが悪いのは、そういう感情に支配される時間が減ったから。
まあ、毎日youtubeで感情やら思考やらを綺麗さっぱり流しちゃう習慣にも問題があるけど。大切にしたい感情があっても、とりあえず動画を流し込んでしまう。
言葉にして、丁寧にアイロンをかけて形をはっきりさせたりしない。トイレの下水に流すみたいに、全ての感情が再生ボタン一つで見えなくなる。
ああ、こうすれば自分の憧れる冷静人間になれるのかなあ、なんて最近は思う。感情の荒ぶりはなく、低いところでくすぶっているだけだ。
人と目一杯会えるんなら、また違うんだろうけど。


好きだったなあ、いろんな人のこと。
熱中して、自我のコントロールが効かない状態だったら、自分の暴走を許してしまえるだろう。自分が「オタク」に憧れを持つのは、コントロールしない好きを発揮している姿に炎の燃え盛るような輝きがあるからだ。オタクになりたい、誰かのこと好きだって叫びたい。好きを宣言しても、許されたい。受け取らなくてもいいから、精一杯表現する好きを聞き流してよ。愛し愛されなんて高望みはしないから、とりあえず好きを発露したい。かわいいを連呼させてほしい。好きを返さなくていいから、影響を受けてほしい。困惑でいい、リアクションがほしい。そういう形の暴力を振るう。
好きだ、好きだった、あの子、あの子は、もう、どうやっても、言葉も、顔も、声も、返ってこない。一人で泣くのは、もう一人の自分が消費するから嫌だよ。見ている自分がいる限り、無我夢中はできないのかな。
熱中症になって倒れたベットであの子の夢を見たい。

作った時期:2021年8月26日ごろ
出した訳:味が変わるほど冷えていたから。

つくることへ生かしてゆきます お花の写真をどうぞ