再生記(2.16) わかりたかったはずなのに

目が覚めてから昨日のことを改めて振り返る。

少し時間が経って言語化できたのは、理解することのできない自分が悲しくて悔しいのだろう、ということ。
なんらかをわかったり、共感できたりする人たちもいる中、わかることを私はもう諦めているんだ。その諦めをまだ、受け入れられてない。

例えば、難しい作品に出会った時。

無知を責めたり、作品と作者が切り離せなかったり、それらのせいで作品を楽しめなかったり、しているような自分がくやしい。

「見るのやめたいくらいしんどい」と、思ってしまうのは、(ホラーでもない限り)きっと作者の意図に反しているんだろうな。作者はどう感じてほしかったんだろうって、ぐるぐると思う、ような。
一方同じ作品にも「すごくよかった」って思う人はいて、私がごちゃごちゃ考えるせいで純粋に楽しめてないんだって知る。


わかんねーって。
わからないって言うことは、わかったフリをするよりも誠実なあり方かもしれないけど、私は「わからない」がもつ「拒否」のニュアンスがイヤ。

かつて、なかなか人に話さないことを共有したら「わからない」と言われて悲しくなったことがあるので、「わからないけどわかりたい」という態度でありたいと思っている。


「わからないけどわかりたい」が私の中での許容範囲だけど、今はあるものに対して「わからないしわかりたくない」になっている。深層心理ではわかりたくないから、質問も浮かばない。疑問というより、拒否や嫌悪の感情が出てくる。残念。

「わからないけどわかりたい」がわたしの中で大切にしておきたいことだったのにな。私の新たな面を切り出してくれたことに対しては感謝したほうがいいんだろう、そもそも私は嫌悪なんてしたくないんだし。
なんでかなーなんでヤダって思ってしまうんだろう。

やだなー心のリハビリが終わらないなー。

わかろうと全力でしてみて、それでもわからなくて、永遠にはてなマークで。そもそもわかろうとする態度が違うのかもしれないけど、気になるって知りたいと近いものじゃないのかな。知りたいから、行動するんだと思ってた。わかりたかった。

今は自分が自分なりに取り組んでたハテナがやっぱりわからなくて、わかる人もいるのだと思うとモヤモヤする。
私は長い時間と濃い体験をしてもわかることのできなかった挫折を思い出すから、今はあのハテナを見かけるのもしんどいんだろうか。

あのハテナは研究を外から中止されて、(ひっそりと続けることもできたかもしれないけど)元から私にはこのハテナ研究への才能がないと気づいてたから、「私からも願い下げですわこんな研究!」みたいになったんだっけね。そもそも今となってはなんであのハテナを研究しようと思ってたかさえ、よく思い出せないんだよ。情けないねえ。

ただ、絶対に「研究したい」と思ってたことは否定しないぞ、動機を忘れても、かつての私はしっかり意志を持って研究したいって思ったんだから。
そういや、一緒だった人が「そもそも研究したいと思ってたなかったかも」って言って去ったから、それで心は折れたのかもしれないな。決意もないまま研究なんてするなよ、って思ってたな当時は。

わかったフリをして、拙い知識や経験で噛み砕いて、何かを当てはめて、自分の中に得るものがあった、と思い込ませることができたらよかったのにね。

ハテナを拒絶したくなる気持ちと、ハテナのことを考えてしまうがために純粋に接せられなくなってしまったものたちを、できるだけまっすぐ無理のない範囲で見つめよう。

濁った水溶液を煮詰めたら、何か結晶が見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。そんな心持ちで。

つくることへ生かしてゆきます お花の写真をどうぞ