立たない役

自分が何かの性別寄りな見た目や声をしていること、私を見て聞いて性別を判断されることはまあ仕方ない。
むしろ自分の身体が周りに期待されるであろうふるまい、言葉遣い、格好に寄ってやろう、装ってみよう、という気持ちもある。身体イメージに寄り添うことで、より私に対するイメージを強化させることになっても構わない。よく聞くイメージに便乗すると、よくわからない自分を突き詰めなくとも、今日の服を決められる。

かっこいい/かわいい をやってやろうというノリは、ヒーローの変身に似ている。変身が気持ちいいのは、定まった別人になれるから。他者や社会らしきものが生み出した別人の像に過ぎなくとも、一時的に借りることで自分の望む別人になることだから。その像がある性別の偏見であっても、同じ偏見が染み込んだ身としては自分とその像をどうにか重ね合わせようとする。
でも、変身してくれ、と頼まれたら途端にやる気をなくすのだろう。誰かに性別を決められると抗いたくなってしまう。私のことを彼や彼女と書かれるとぞわぞわする、好意的な文脈であっても。違う、私は男でも女でもないんだ。

かっこいい男であるように求められたとしたら、かわいい女の子になりたくなる。それはきっと性にかかわらず、求められていそうなイメージに飽き飽きして、壊すために変装したい節があるのだろう。自分と身体も精神も正反対の人物になれるなら今すぐなってみたい。そうして、今の自分と全く違うように扱われてしまいたい。少しの間だけでいいけれど。だって長期間の変装ならいつかは周りも私も慣れてしまうだろうから。

ある性別のようなフリを乗り気でする時もあるくせに、それを見た人があなたは男/女だね、と言った瞬間にヘソを曲げる。わけがわからないな。矛盾だ。でも現実はそうなってしまう。

基本的に自分の性別のことなど考えたくない、どの性別にも属したくはない。性別なんてなければいいのに。

性別不明でありたい。年齢不詳でありたい。無色でありたい。謎でありたい。

固定されたイメージをぶっ壊せ。暴れまわってめちゃくちゃに。そしていなくなり、別人になって現れて、消える。
毎日違う見た目と性格で生きてる私をつかみきれない周りが、私の名前選びに四苦八苦して決めきれずにいればいい。

しかし、そうした役割演技とアイデンティティの拡散のようなものは、青年期にはごく普通に考えてしまうらしいのだ。(私が青年期かどうかはさておき)そのため最近読んでる社会学関連の本は、「お前の考え、全て当たり前」と囃し立ててくれる。が、どうすればいいのかは教えてくれない。私の頭に渦巻く考えでさえ私は私のものと主張できない。いっそ読まなかった方がそんなことを考える自分を、私として見出せたかもしれない。

誰でもなく、私でありたい。
だが、一人で確立した自己を持つことのできない私は、ふらふらと人に与えられるイメージを間借りしては、あーでもないこーでもないと天邪鬼にうだうだ言っているのである。

つくることへ生かしてゆきます お花の写真をどうぞ