動機について

(フェイスブック投稿より、未整理)

 やっぱり何かをする時に、その方法とか目的とか結果とかにもまして重要なのは「動機」だと思う。そしてその動機というのは極めて個人的なものに端を発することでエネルギーを得るし、それが個人的なものに留まらないからこそ深度を持つ。いくら数多く表現してたとしても、その動機に深度とエネルギーがなければ、それは単なるアウトプットの多産か自己表現による発散の意味しか持ち得ないのかもしれない。

 人が何かをする動機についてはずっと考えているが、必ずしも自分が意識しているところだけに動機があるわけではなく、無意識から生まれる動機の方が圧倒的にその人を支配している。言葉では立派なことを掲げているが、本人も意識していない暗い動機が裏側に潜んでいることはよくあるし、良きことを行動しているからといって、その行為が人のまなざしにさらされている所でしか行われないのであれば、その動機は本当の動機ではないという事かもしれない。だから動機の深度を測るための「まなざしの解像度」を上げていくことが重要なのだ。
 自分が意識している範囲での動機だけを見ていると、容易に自分の無意識の動機を正当化する。人の無意識にあるのは大抵は欲か怒りなので、脳幹が支配する原始的な動機に結びついている。だから人が持つ動機であっても、自分が持つ動機であっても、注意深くその無意識の動機を観察し洞察しないと、簡単に言葉や見えている範囲での行動に絡め取られてしまい、まなざしが曇ってしまうのだと思う。 特にそれが良い行為だとされていればいるほど、相対化出来ずに物事が進んでいく。だから危険なのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?