近代の科学者哲学者

近代でのまなざしの大転換

 ヨーロッパが中世から近代を迎えようとする頃、人々が世界に向けるまなざし、つまり世界観に大きな転換点が訪れた。最も大きな衝撃を与えたのは16世紀にコペルニクスの唱えた地動説であったのは言うまでもない。しかし、世界にとってより切実な問題であったのは、創造主である神はこの世を善なるものとして生み落としたのか、それとも悪なるものとして生み落としたのかという問いであった。 
 この世が善なるものであれば問題はない。しかし悪なるものであるとすれば、創造主の意図は一体どういうものなのか。これはキリスト教を中心とする社会に対して投げかけられた大きな問いであったと言っても良い。
 この問いかけに対し、17世紀のドイツの哲学者のライプニッツはこの世は善なるものであると主張した。世界は多くの悪や不幸にあふれてはいるが、それは善なる世界にとって必要不可欠のものである。そうした楽観論をライプニッツは展開した。しかしこれに対して異を唱えたのが18世紀のフランスの啓蒙思想家のヴォルテールである。
 ヴォルテールがライプニッツの楽観論に疑問を抱いたきっかけとなったのは、1755年に発生したリスボンを襲った大地震という。この理不尽な天災に衝撃を受けたヴォルテールは、この世は悪に満ち矛盾のかたまりであると考え、『カンディード』という小説で表現した。苦悩に満ちた男の描いた『カンディード』を、ヴォルテールは自身の作品であることを秘匿したが、この著作で彼はライプニッツの楽観主義を批判した。
 ヴォルテールが正しく、もしこの世が悪に満ちているのであれば___。そんな悪を正すための「革命」が必要であるという考えに正当性が与えられる。これがフランス革命をはじめとする社会における革命に根拠を与えることとなるのだ。
 しかしその後の19世紀に、世界へのまなざしはまたもや大きく転換する。“地球は動いているのか”という問い、“この世は善か悪か”という問いどころではない。“この世は存在するのか否か”、という衝撃的な問いが追加されたのだ。それをもたらしたのは他ならぬ科学であった。
 ポアンカレを始めとする科学者が探求していた電磁波と原子の研究。そこから導かれたのは「物質は存在しない」という新たな問いだ。物質の性質を突き詰めると、そこには質量すらなく、+とーという電気的性質に還元されるという事実。それは世界へのまなざしを根本的に変えねばならない問いであった。
 それに追い打ちをかけるようにエルンスト・マッハのような哲学者たちは現象主義を唱え始めた。つまり世界とは、それを眺めている者の「知覚現象の束」であり、大脳が生み出した幻に過ぎないと主張し始めたのだ。
 もしこの世界が物質ではなく電気の結果であったり、あるいは我々の脳の中で生じる幻であるのならば。この世が善か悪かという問いは意味を失い、また唯物論を根拠とするマルクス主義に代表されるいかなる革命理論も成り立たなくなる。
 “存在とは一体なんであるのか”___。この近代におけるまなざしの大転換が生み出した問いに対する答えを探し求めるのが近代思想史の中心である。それが出発点となり、存在と非存在、知覚されるものと知覚され得ぬものを巡って科学と神秘との間の境界線はまたもや編み直されることになる。


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