成熟とオトナ

 ぼくらが若い頃に見た大人はかっこ良かった。大人は色々とモノを知っていて知的で、余裕があり、包容力と寛容さがあり、お洒落で色んな遊びを知っていた。カタカナで「オトナ」と書くと、ちょっと危ないイメージや淫猥な響きにドキドキもした。
 でも、自分が大人の年齢になって周りを見渡すと、そんな魅力的な大人の空気はどこにもなくなってしまった。単に歳を取っていることが大人であるとは思わないし、そんな大人はとってもつまらない。ぼくらが憧れた「オトナ」は、もうイメージの中にしか居ないのだろうか。

 今の時代、大人達は若者になりたがっている人が多い。まるで若さにしか価値がないかのように、出来るだけ年齢を若く見せたい空気が漂っているのはとてもつまらない。「美魔女」という言葉はまるで20代のようにしか見えない50代以上の女性のことを言うらしいが、50代相応の美しさというのは魅力がないのだろうか。歳を取ることは絶望であるという宣言に聞こえる。
 ぼくは今さら若者に戻りたいとは全く思わないし、自分の若い頃のことを思い出すと、恥ずかしくなるぐらい青臭い思い出ばかりだ。
若い頃と同じようなエネルギーを保っておくことは大切なことだ。しかし、単にエネルギーが満ちていればいいというものでもない。

 確かに若さというのはエネルギーが溢れている状態だ。そのエネルギーが大きすぎてコントロール出来ないから若者は悩むのだ。しかし大人になるということは、そのエネルギーをちゃんと自分の意識のもとで御していけるようになることだと思う。
 どうにもならずに爆発しそうになる自分の身体と心の状態を、ちゃんと管理できるから大人なのだ。自分のエネルギーを自分の為だけに使うのじゃなく、愛をもって人や社会にエネルギーを傾けられるからこそ大人なのだ。
 ちょっと危ない遊びをしたり、軽いタブーをおかしても、自分を見失わずに保つ余裕があるから大人なのだ。お酒を飲むというのは、所構わず酩酊することじゃないし、ましてや依存することじゃない。お酒は元々が神経毒なのだから、少量取り入れて軽い神経麻痺を楽しむことが許されるのは、ちゃんと節度を持ってコントロール出来る大人であるからだ。だからその条件を満たしていないコドモはお酒なんか飲んじゃいけない。コドモのような大人が増えた今、年齢による規制は形だけになっている。

 若さを至上とする文化は未成熟な文化だ。成熟した文化では、大人である方が価値が高い。「若いこと」、「大きいこと」、「強いこと」、「激しいこと」、「速いこと」、「分かりやすいこと」という価値観は一見魅力的に感じるが、実は非常に未熟で、文化の表面的なものしか表していない。
成熟した大人の文化というのは、「老いること」、「小さいこと」、「弱いこと」、「穏やかなこと」、「ゆっくりとしていること」、「複雑で精妙なこと」を受け入れて、楽しめる余裕のあるものだ。
 光の輝きに憧れるだけじゃなく、闇に包まれる心地よさを知っていること。喜びや興奮だけを求めるのではなく、哀しみや切なさを通り抜けること。善いことや美しいことを愛するだけでなく、悪いことや醜いことも愛すること。理屈や正義を大切にするだけでなく、理由のないことや間違ったことも受け入れること。自分のことを大切に出来るだけではなく、自分以外の誰かのことも大切に出来ること。
 そんな矛盾したものを抱えたままでも、自分を保ちながら生きていく覚悟があるからこそ、大人はカッコいいのだ。単純なコドモは青臭い正義や愛を振りかざすが、オトナに憧れるコドモはその反動として、偽善を憎み、ペシミスティックに闇に身を投じる。しかしそれはオトナの表面的な部分だけをなぞらえようとしているに過ぎない。

 オトナは世を批難しない。オトナは世の様々な態度を包摂するのだ。
清濁の両方を肯定しながらも批判的に眺め、簡単に判断を下さず思考を深めていくことを諦めない。だからといって自分や誰かが不幸になることは望んでいないし、願わくば社会が少しでも進化して欲しいと思っている。
それは己の中の欲を肯定しながらも、どこかでそれから逃れたいと考えているパラドックスを抱えている。だからオトナには憂いの匂いがあるのだ。むやみやたらに威張り散らすことや、人を萎縮させるような態度は、むしろ子供っぽい。年の功というのは自ら主張するのではなく、周りが勝手に感じるものだ。
 そんなカッコいいオトナが増えるということは、その社会を成熟にしていくと思う。社会や国だって人と同じように、成熟していくのだ。日本も他のアジアと同様に、かつてとても成熟したオトナな文化を持った国だった。しかし近代文化がやってきた時にもう一度、その文化の中でコドモからやり直すことになってしまった。しかも残念なのは戦後に持ち込まれた文化が青臭いアメリカ文化だったことで、欧州の植民地となった他のアジア諸国に大きなハンデを追っているかも知れないというのは勝手な想像だろうか。

 今日本は他のアジア諸国に先立った文明開化から150年、戦後から70年経ち、近代文化がそろそろ成熟してきた頃に入っている。そんな成熟しつつある国だからこそ成熟についてちゃんと考えるタイミングが来ている。
ぼく自身もようやくそういうことを語れるような年齢に差し掛かってきたのかもしれない。

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