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蛾の輪廻

 一匹の蛾が家の中に入ってきた。当て所なく飛び回る蛾を見て少し不憫に思った。このまま外に出て行くことが出来なければ、こいつはおそらく3日も経たないうちにこの家で亡くなるだろう。いやたとえ外に出て行ったとしても、寿命がそれほど長いわけではないに違いない。
 人の寿命は80年もあるのに、それと比べて虫の寿命はなんと短いのだろうか。ぼくらがずっと生きている間に、何世代も生まれては消えるということを繰り返している。そのほんのわずかな生には一体何の意味があるのだろうか。そんなことを考えていたが、ふとその答えが浮かんできた。
 この蛾は死ぬとその亡骸は他のいのち達の糧になる。そしてまた別のいのちが生まれて、ある期間を過ぎるとまたそれは死にその亡骸は別のいのちに受け継がれる。
 こうしていのちを受け継ぐために蛾は生まれては死んでいくのだろう。ずっと生まれては消えていくことを繰り返すのは、次のいのちへと受け継いでいくためなのだ。では何を受け継ぐのか___。
 それは生きてきた記憶なのではないか。
 ずっといのちが受け継がれていくのであれば、いのちは本来分けることなど出来ない一つのものだ。それがたまたま蛾や草花や微生物やぼくという形となってこの世に現れる。その現れたものだけを見てぼくらはいのちだと言うが、実はいのちというものはもっと総合的なものだと最近は確信している。
 ぼくらは何度も姿形を変えてこの世に生を受けながら、様々な記憶を紡いでいる。リアルな記憶を紡ぐためにはこの世に肉体を持って体験しなければならない。この世で体験する素晴らしい体験や、悲しい体験、過酷で辛い体験は全て肉体を通して精神に記憶される。むしろ精神に記憶するためにぼくらは肉体を持って生まれて来るのかもしれない。
 輪廻という世界観はおそらくそういうものなのだろう。
 肉体が一つの役割を果たし、記憶の収集に一つの区切りがつけば、その亡骸は次の肉体のためにあけ渡される。この地球が誕生してからその輪廻の繰り返しが膨大な数行われてきたのだろう。
 きっと僕の亡骸もそうなるだろうし、僕の子孫も同じようにその肉体を次に明け渡しながらいのちが続いていく。大きな肉体を持っていれば、それはたくさんのいのちへと分解されるし、小さな肉体しかないものは数をたくさん増やし、また回数のサイクルが早い。
 蛾のようないのちが僕らに比べてはかないのは、肉体が小さいからだ。
この宇宙の摂理はとてもうまくできている。僕らは何千億回もそうしたいのちの輪廻を繰り返しながら、記憶を先へと紡いでいるのだ。

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