多様性を認めることの落とし穴

 ちょっと前まで日本あるいは世界は、「みんな一緒」という価値観だった。それが今ではすっかり「みんな違ってみんな良い」という価値観になってしまった。基本的には多様な価値観を認めるということには大賛成という立場だし、特にぼくのような者などは自分の奇異な価値観も認めて欲しいと思っている。しかし最近はそればかりが強調される社会を観察していると、どうも妙な違和感を覚えることが多くなった。それを掘り下げていくと危ない問題に行き当たる。
 多様な価値観を認めるということは、ある意味で世界が一つ進歩した証なのだと思う。農村という地域共同体では多様な価値観など必要なく、みんなが同じ村で暮らし、みんなが同じ仕事をし、みんなが同じように物を考えて、みんなが同じような価値判断をしていた。人間にとって目の前の自然は厳しく、そして農業という労働は過酷で、人々は支えあって生きていかなければいけなかったのだ。だからその場所で暮らす村人が支えあって生きていくためには、個人それぞれの多様な価値など必要なく、皆が価値を共有しているということが大切だったのだ。コミュニティというのは危機が生じた時に生まれやすい。安全を確保し、食料を得るために自然と戦うという危機意識が、人間を一致団結させてきたのだ。
 当然それは「うっとおしい」側面も持っている。その共有されている価値観から外れる者は奇異な目で見られ、村八分にされるし、厳しい掟が課されることもある。「みんながやっているから...」という理由でそれに従わねばならないということはとても窮屈だ。それにコミュニティが濃密であるということは、プライバシーなどなく、自分の全情報も共有されることになる。常に自分には共同体のまなざしが注がれている。おかしな行動がないかどうかが監視されていて、自分という存在を四六時中誰かと共有しなければならない。ぼくらはその状況を、かなりストレスフルだと思うかもしれないが、農村共同体がほとんどだった時代はその感覚が当たり前で、それ以外の選択肢を多くの人は考えなかったと考えれば、苦痛には思わなかったのかもしれないと想像する。
 しかし、今の社会においてもう一度そこへ戻れというのはとても辛い。人に自分を合わせていくのは苦労を伴うからだ。自分の好きな時に好きなことが出来ないし、好きなように考えることも、好きなものに時間を使うことも難しくなる。つまり自由がなくなるのだ。

 濃厚で湿度の高い人間関係から人は逃れたいと思う時もある。それが「大都市」というものを発明したとも言える。都市の大通りを歩いていると自分のことは誰も知らない。マンション暮らしなどしていると、隣の人や上の階の人がどういう人なのか知らないことも多い。農村共同体のように誰かに見守ってもらっているという安心感と引き換えに、誰からも見られていないという自由を手にいれることで、誰かに監視されることもなく、アノニマスな自分として居れる。これを群衆の中の孤独と捉えるか、それとも監視からの解放と捉えるかの違いはあるが、ともかく"人から放っておかれる"という自由は手に入れることが出来る場所が大都市の中心部だと言える。都市での人間関係は高田公理さんいわく、「サラサラとした砂粒のごとき人間関係」であり、農村のように同じ価値観を持つことを必ずしも強要されないのだ。
 都市と呼ぶべきか近代国家と呼ぶべきかの違うはあるにせよ、そういう人間関係の中で共有されるのは、心に命じておかねばならない「掟」ではなく、他者との関係性の中で守られるべき「ルール」というものが共有される。心の中でそれを信じているかどうかはどちらでも良く、行動規範としてそのルールに従っていればいいのだ。だから他人と価値観をすり合わせることをわざわざしないような方向へ行くのは必然的だと言える。
 近代国家というのは、人々が慣習的に培ってきた「社会の規範」よりも国家によって定められた「法律」に従うことが最低限の条件とされる。それにさえ従っておけば、何を信じようとどう行動しようと自由を手にいれることができるのだ。それが近代以降のぼくらのまなざしであり、都市的な共同体のあり方として、法律さえ守っていれば多様な価値観であっても良いということが共有されている。
 旅人を標榜している僕自身は、濃厚な農村共同体は苦手だし、出来れば好きにさせて欲しいと思っているタイプなので、多様な価値観を認めるということには大賛成だ。特にこれからの21世紀は田舎であろうと都市であろうと、世界中がますます「都市的」な共同体へと移行していくだろうことが予想される。だからこの「多様な価値観を認める」という方向に向かっていくことは間違いないだろうし、概ね正しいと思っている。
 しかし一方で、そうした都市的な社会の中では自由が確保される代わりに責任を伴う。農村のように助け合わないと現実的に生きていけないという状況ではなく、自分のタイミングで勝手に生きていくことが出来る都市では、その分誰にも助けてもらえない可能性があるというリスクもある。
 自己責任ということが強く働きすぎることは、様々な危険性を伴う。自己責任ということは、ポジティブな側面を見れば自分の行動に責任を伴うということなのだが、ネガティブ見れば自分の行動以外には責任は伴わないということだ。だから誰もが自分が取れる責任の範囲の中だけで動こうとするし、それ以外のことは責任を取らなくても良いと思っている。
 孤独死、コミュニケーション障害、貧富の格差、社会的弱者の問題など、今の都市部で言われている様々な問題は、そういった行き過ぎた自己責任から生じているものも多く、乾いた砂粒のごとき人間関係では色々と支障が出てくるということなのだろう。その反動として、コミュニティをいかにして再生するのかということがしきりに唱えられているのだ。
 では農村のような地域共同体をもう一度取り戻すのかというと、それは多分難しいと思う。こんなにも多様になってしまった我々が、同じ価値を共有するというのはとても難しいことだからだ。コミュニティは危機があるときに形成されると言ったが、世界は安全で快適で便利になり、目に見えて危機だと感じられるものが少なくなってしまった。そしてこのグローバル社会の中では同じ地域の中にいるからといって同じ価値観を共有しているのかというとそうではなくなってしまった。今や秋葉原に足しげく通う若者と、中山間の限界集落で農業をずっとやってきた高齢者とは、同じ日本であったとしても同じ価値観を共有するコミュニティであるとは誰も言わないだろう。ひょっとすると、秋葉原の若者はパリのジャパンエキスポに出入りする若者と近しい価値観を持っていて、中山間地域の高齢者はブルガリアの片田舎の高齢者と近しい価値観を持っているかもしれない。コミュニティは地域毎に"縦にソート"されているわけではなく、世界中で地域を超えた"横にソート"されているのだ。
 そんな中で全世界的に共通せざるを得ない価値観というのが、今の所は"お金"ということになっている。経済の仕組みは世界中を覆いつくしてしまって、大なり小なりお金だけが唯一共有されている価値になってしまっていると言ってもいいかもいれない。だからぼくらの中で、目に見えてわかりやすい危機というのは経済危機ということになってしまうのだ。地球環境の危機も経済に起因している。農村の担い手不足も経済に起因している。
 それが本当に共有するべき価値なのかというとぼくは必ずしもそうだとは思わないのだが、ともかくぼくらは望むと望まざると、経済の論理を共有せざるを得ない状況に立たされている。
 お金という指標は、農村社会とは違う意味で価値を一元化する。そしてそれは序列として見えてくるため、容易に比較できるようになる。お金をたくさん持っている人の方が、お金を少なく持っている人よりも、豊かであるとぼくらは思い込んでしまう。自分が豊かかどうかということがお金によって可視化されてしまうのだ。程度の差はあるが、皆がたくさんお金を持つことが「価値」であると思い込んで、それに向かって行動するという原理は今の所、世界が概ね共有している価値観だと思ってもいいかもしれない。
 その反動として、お金だけではない多様な価値を認めるという考えが出てくるのは、当然のことだと思う。お金は価値や豊かさではなく、価値と交換できるものでしかない。ぼくらが一番に考えなければいけないのは、お金を何と交換するのかという価値や豊かさの方だ。その価値や豊かさへの考え方が人ぞれぞれであって良いというのは、当然のことだし、それを認めるというのは大賛成なのだ。しかしそれは「危機がそこに無いこと」が前提になっているのではないだろうか。
 平和で安全で問題の無い社会という前提条件が共有されているからこそ、人間は自分の都合で勝手に生きることができるのだ。20世紀の科学技術は、自然という危機を僕らから取り除いたように見えるし、日本に住んでいると戦争の危機感がリアルに迫ってくることはなかった。ぼくらは危機が無い社会に住んでいると思い込んでいるが、実は様々な危機があるのにそれが見えなくなっているだけであることは、東日本大震災以降にはっきりとわかってきた。地震の危機、福島の問題や徴兵制の議論といった分かりやすい危機だけではなく、教育の問題、食の安全性の問題をはじめ様々なレベルで危機がぼくらを取り巻いている。そんな様々な危機に全員が直面して共有しているにもかかわらず、多様な価値観という名の下で透明化してしまってはいないだろうか。多様な価値観を認めるということが、様々な危機を見えなくする目くらましに使われ始めている風潮はかなり危ないと思っている。
 一定の価値観を排除せずに、多様な価値を受け入れるということは良いのだが、それが本当に価値なのか、そしてそれはぼくらが共有していけるものなのかを確かめるという態度の方が重要だと思う。
 人間にはそれぞれ生まれてからある一定期間の間に形成された自我があり、それは基本的には脅かされることを嫌う。変わるというのはエネルギーがいることだ。だから「みんな違ってみんな良い」として放任されるのが、人間にとっては心地よい状態なのだ。多様性を認めて欲しいというのは、自分の自我が好き勝手することを認めて欲しいという方向へ行きかねない。ぼくが感じている違和感は、多様性を認めるということが、他者と何かを共有する努力や、自分の中で様々な価値観を育てて成長していく努力を放棄するような「言い訳」として用いられる状況だ。
 価値観が違うということは少なくとも、相手が何に価値を置いていて、それはどういう動機があり、どういう感覚があるのかということを理解しようとする態度の上に築かれるものだと思っている。最初から相手の価値観を知ろうともせず、それご自分の可能性を開くかも知れないということにも想像力を働かせることを放棄して、価値観が違うからという理由で共有出来ないとする態度は何かが違うと思う。価値観が違うというのは対等な関係が前提となっていて、知識や思考や倫理のレベルが揃って初めて、価値観の選択の違いが出てくる。少なくとも、それに価値があるかどうかを判断するための材料を吟味して、自分を深める態度を持つ必要があるのではないだろうか。

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