システムエトセトラ

 システムは人間の能力や創造性を開放する方向と、逆に人間の能力を下げてしまう方向の両方に働く。システムは人間が作った道具と言えるので、いわゆる「道具は使い方」ということなのだが、ことはそう単純ではない。もともとは何か便利になるために作った道具が、今度はそれがないとぼくらは何もできなくなってしまう。それは人間の能力を弱める方向にシステムや道具が作用していると言える。
 例えばハサミという小さな道具を考えてみればわかりやすい。ハサミは紙を切るのに便利だ。紙をたくさん切りたいときに手元にハサミがあると作業にスピードが格段に上がる。ハサミという道具がない時代にはできなかったことが、その発明によってできるようになったことだってあるはずだ。
 しかしもし紙を切りたいときにハサミが手元になかったらどうするのか。ハサミがないと紙が切れないので、ぼくらはウロウロとハサミを探し始めるかもしれない。そして見つからないことにイライラし始め、躍起になって探しだした頃には随分と時間が経っている。
 ハサミの便利さを知っていることが、逆にハサミがないと紙が切れないという思い込むマインドを作る。道具に依存しないとそのことが達成できないと考えるのは人間の能力が下がったと言えるのかもしれない。
 紙を切るというぐらいの話ならば笑い話で済むだろう。しかしそれは小さな道具から大きなシステムに至るまで同じ構図になっていて、問題の本質は同じだ。使い方によって、それは人間の創造性や調和を引き出しも奪いもする。
 

 もう少し抽象的な例で言えば「言語」というのもシステムだ。言語というものが生まれたことによって人間が抽象的な思考ができるようになった。自然界にあるものだけではなく、そこにないものを思考することができ、生み出すことができるようになったのは人間が言語をもったことによるところが大きい。
目の前に花がなくても、ぼくらは花という言葉を口にすることで思い浮かべたイメージを共有することができる。あるいは具体的な事物を指し示さないような「概念」、例えば"豊かさ"とか"平和"とか"愛"とかも表現したり共有したり、そして思考したりすることができる。そしてその組み合わせによって無限にぼくらは意味を生み出すことができる。言語というシステムがあることによってぼくらの創造性は広がっていくのだ。
一方で同じ言語であっても、調和を乱すような使い方をすることもできる。
人をののしったり、傷つけたり、本来自然界にはないようなモノを生み出したりすることもできる。言葉によって争いが生まれ、言葉が人を殺し、言葉によって自信や創造性が奪われる。こういう使い方をぼくらはすることもできるのだ。
 通常の感覚を持っている人であれば、自分はそういったひどい言葉を意図的に使うようなことはないと思うかもしれない。しかしそれは自分を過信しすぎだ。ぼくらは正しいことだと思い込んで発している言葉に支配されていることだってあるからだ。
戦争とは正義と悪が戦っているわけではなく、それぞれの正義がぶつかっているのだということは、もはや例を引き出さなくてもわかることだと思う。
 ぼくらが暮らしている産業化社会というのはまさにシステムの賜物だ。ぼくらは毎日食べるものをどこかで買ってくる。誰かが作り、誰かが加工して、誰かが運んできてくれて、誰かが並べて値段をつけてくれたものを、購入するという選択だけで済むのは、そういうシステムを作ったからだ。もしぼくらが自然の中で一から食料を採取しなければならない状況になったとすれば、それはやることが膨大に出てくるだろう。一回の食事のときに食卓に並べられる料理をもし自分で集めてくるとすればどれほどのことをせねばならないのか。
 米を育てて収穫し精米する。野菜を育てる。獣と取り解体する。海から塩を取る。胡椒を育ててすりつぶす。植物や動物から油を取って漉す。それだけではない。水を汲む、器を作る、箸を削るなど膨大な労働が裏側にあるのだ。それをお金というシステムが便利にしてくれていると捉えることもできる。
 もしお金というシステムがなければ個人の能力が非常に重要になってくる。獣を取るのがうまい人は肉をたくさん食べれるし、そうでない人は肉はあまり食べることができない。獣を取るのはうまくても野菜を育てるのが下手であれば肉ばかり食べることになる。自分の能力を磨くことが具体的な死活問題や幸せに直結する。
 だから人間はそういうことをしなくてもいいようにシステムを生み出した。獣を取るのがうまい人と野菜をつくるのがうまい人が協力し合えば、互いに交換して両方食べることができるのだ。それは便利で素晴らしいアイデアだったに違いない。獣を取るのが苦手な人でも肉を食べることができるのは、そうしたシステムのおかげだ。今でもぼくらはその延長線上にいる。社会の中で自分が何かをする代わりに、誰かに何かをしてもらってぼくらの暮らしは成り立っているのだ。そうした信用の証としてお金を共通のシステムを作ったはずだった。
 しかし便利になると思って作ったシステムは、使い方を誤ると簡単に当初の目的と逆の方向へ作用し始める。ぼくらは自分ができないことと自分にできることを互いに交換して、協力するためにこのシステムを生み出したはずなのに、そのことを忘れている。
 逆にお金というシステムがあることでいかに不便な思いをしたり、能力や創造性を下げてしまっていることがあるだろうか。お金がないと何もできないと思い込んでしまい、お金があれば信用を得られると思いこんでいる。お金を稼ぐために人と競争し、お金を稼ぐための能力だけを磨いているうちに、自分が誰かに提供できるものは何かを見失ってしまう。
 今は例としてお金というシステムや道具を挙げたが、それはもちろんそれだけではないし、ましてやお金というシステムが悪いということを言っているわけではない。自分が支配化においてつかっていたはずの道具やシステムに、ぼくらはいつの間にか支配されてしまっていることもある。しかもそれは気付かない間にその支配関係が逆転していることがあるのだ。
 今の時代はそれがもっと見えにくくなっている。なぜならば今や地球上に文明は一つしかなく、それを相対化してくれるような"まなざし"がそこにないからだ。だが希望がないと思う必要はない。システムや道具ではなく自然の一部であるぼくらは、内なる声に耳を傾けることが今こそ必要なのだ。システムや道具は所詮人間が作った不完全なものだ。それは経済であっても政治であっても法律であっても芸術であっても宗教であっても、本質的には何も変わらない。大事なのはちゃんと自分の中の自然や本能に耳を傾けて、道具やシステムから支配を取り戻すことだ。そのための方法は実はたくさんあるのだが、それがまずは見えるかどうか。

 


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