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アメリカの巨大農業企業

アメリカの農業は大きく分けて5つ。
北部の小麦、歩行東部の酪農、中西部のトウモロコシと牧畜、南部の綿花。国際競争力を持つアメリカの農産物はこれらである。
アメリカの農業は日本の農業とは異なり、大規模農業と企業化が行われているため、ほとんどが巨大農業企業である。
主要企業としては「カーギル」、「アーチャー・ダニエルズ・ミッドランド社(ADM)」、「E.I.デュポン・アンド・カンパニー(デュポン)」、「モンサント社」、「ドール・フード・カンパニー」、「チキータ・ブランド」、「パーデュー・ファームズ」、「J.R.シンプロット社」。

「カーギル」(Cargill)
 アメリカ合衆国ミネソタ州ミネアポリス市近傍のミネトンカに本社を置く穀物メジャーの1つである。穀物のみならず精肉・製塩など食品全般及び金融商品や工業品にビジネスの範囲を広げている。
 カーギル社の企業形態は、株式の全部をカーギル家とマクミラン家の関係者が所有する同族企業であり、非上場企業としては世界最大の売上高を誇る。秘密主義であり、情報の公開を義務付けられる公開会社としていない。20世紀に資産が6000倍になる成長をしている。
 ミネアポリスにある本社は、外観が古風な建物となっている。古城のような外観から通称は「シャトー」。内部は一大情報センターとなっており、全世界における穀物生産・消費の情報をもとに経営戦略が練られている。アメリカの中西部、穀倉地帯からメキシコ湾、五大湖、大西洋西岸にかけて穀物エレベーターを駅ごとに所有し、このシステムを背景に仕入れ価格を支配、駅まで作物を運搬できない小規模農家を疎外してきた。
 穀物メジャーはビジネスの性格上、石油メジャーと同様に政治と密接な関係を持つ場合がある。米国の対日貿易政策にも影響を与え、第二次世界大戦後の日本の米あまりにも関わらず、学校給食でパン食や肉食メニューを増やし、日本人の食習慣を欧米化させ、対米穀物輸入を増加させる対日政策の裏には、アメリカの政治家に対する穀物メジャーの政治力が働いたともいわれる。
 日本では1956年にトレーダックス株式会社として設立され、2007年に日本の中堅商社であった東食を買収し改組した「カーギルジャパン」を子会社に持つ。

「アーチャー・ダニエルズ・ミッドランド社」(Archer Daniels Midland,NYSE: ADM)
 アメリカ合衆国の穀物メジャー。特に食用油の原料となる大豆や綿花、トウモロコシなどに強みを持つ。
 1902年に、ミネソタ州ミネアポリスで、ジョージ·A·アーチャー(George A. Archer)とジョン·W·ダニエルズ(John W. Daniels)が、亜麻仁(亜麻の種子)粉砕事業を開始し、創業。
 1923年に、「アーチャー・ダニエルズ·亜麻仁社」(Archer-Daniels Linseed Company)は「ミッドランド亜麻仁製品社」(Midland Linseed Products Company)を買収し、「アーチャー·ダニエルズミッドランド社」(Archer Daniels Midland Company)を形成した。
現在はイリノイ州中部のディケーターに本社を置いている。
 創業以来10年ごとに、ADMは、製粉、加工、専門の食品素材、ココア、栄養など、少なくとも1つ以上の主要収益源を追加していった。
 製品には、大豆油、綿実油、ヒマワリ油、キャノーラ油、ピーナッツ油、亜麻仁油、ジアシルグリセロール(DAG)油だけでなく、トウモロコシ胚芽、コーングルテン飼料ペレット、シロップ、でんぷん、グルコース、ブドウ糖、結晶ブドウ糖、高果糖コーンシロップ甘味料、ココアリカー、ココアパウダー、ココアバター、チョコレート、エタノール、小麦粉、等々が含まれる。最終用途は、人や家畜の消費用、および、バイオエタノールやバイオディーゼルなどの添加燃料。
 長い間、食品や食材の会社として知られていたが、近年は燃料生産に投資。バイオエタノール生産のため、パーム油生産量1位のインドネシア共和国へ進出を決定した。

「E.I.デュポン・アンド・カンパニー」(Du Pont)
 アメリカ合衆国の化学会社。規模は世界第9位・アメリカで第3位(世界最大はBASF)。[4] 石油会社を除けば時価総額ベースでは世界で四番目に大きい化学会社である。なおアメリカ国内では英語読みで「デュポント」と発音される。正式社名はE. I. du Pont de Nemours and Company(イー・アイ・デュポン・ド・ヌムール・アンド・カンパニー)で、本社はデラウェア州ウィルミントン市に存在する。
 創業は1802年。資本金は111億3600万USドル。創業者はフランス出身のユグノーでエミグレ(フランス革命後に国外へ逃亡した人々)であるエルテール・イレネー・デュポン(1771年 - 1834年)。メロン財閥、ロックフェラー財閥と並ぶアメリカの三大財閥と称されることもある。
 エルテールの祖父はユグノーの時計職人で、父は経済学者で政府の官僚にもなったピエール・サムエル・デュポン・ド・ヌムール(Pierre Samuel du Pont de Nemours)であった。フランス革命を避けて、1799年に一家でアメリカに移住したエルテールは、アントワーヌ・ラヴォアジエに師事し化学知識があり、黒色火薬工場としてデュポン社を設立した。当時アメリカで生産されていた黒色火薬はきわめて粗悪であったため、ビジネスは成功した。徹底的な品質管理と安全対策、そして高品質によりアメリカ政府の信頼を勝ち取り、南北戦争で巨利をあげた。やがて20世紀に入りダイナマイトや無煙火薬などを製造するようになった。第一次世界大戦・第二次世界大戦では火薬や爆弾を供給したほか、マンハッタン計画に参加しワシントン州ハンフォード・サイト、テネシー州のオークリッジ国立研究所でウラニウムの分離・精製やプルトニウムを製造するなどアメリカの戦争を支えた。
 デュポン家からは海軍軍人サミュエル・フランシス・デュポンらが輩出された。またデュポン家は草創期の自動車産業に着目し、1914年にはピエール・S・デュポンが1908年に創業したゼネラルモーターズ(GM)に出資した。後に彼は社長に就任し、彼の指揮とデュポン社の支援の下、ゼネラルモーターズは全米一の自動車会社へと成長した。また、GM支援とは別に、1919年から1931年にかけては、自社での自動車製作もおこなった。エンジンは主にコンチネンタル社製を使用した。デュポン社とGM社のこの関係は、1957年に反トラスト法によってデュポン社がGM株を放出するまで続いた。
 1920年代以降は化学分野に力を注ぎ、1928年には重合体(ポリマー)の研究のためにウォーレス・カロザースを雇い、彼のもとで合成ゴムやナイロンなどが発明された。さらにテフロンなどの合成繊維、合成樹脂や農薬、塗料なども研究・開発し取り扱うようになった。
 2世紀にわたる歴史の中で絶えずM&Aを通じて事業を再編し続けていることでも知られ、前述のGM株保有の他、大手石油会社のコノコ社を傘下に入れていた時期もある(1999年に売却、コノコはその後フィリップス石油と合併し現在のコノコフィリップスに)。近年はナイロン事業や医薬品事業などを売却する一方、農業科学・栄養健康・産業用バイオサイエンスなどの高成長分野に注力しており、モンサント社・シンジェンタ社と並ぶ大手種子会社としての顔を持っている。
 2015年12月11日、ダウ・ケミカル社との対等合併を発表。売上高ベースで900億ドル、時価総額ベースで1300億ドル規模の世界最大の化学会社が誕生することとなった。[5]統合新会社の社名は「ダウ・デュポン」となり、統合後農業関連会社、素材科学会社、特殊化学品会社の三つの会社に分割される予定である。

「モンサント社」(Monsanto Company、NYSE:MON)
アメリカのミズーリ州 クレーブクール[3]に本社を持つ多国籍バイオ化学メーカー。2005年の売上高は62億ドル、2008年の売上高は110億ドル、遺伝子組み換え作物の種の世界シェアは90%。研究費などでロックフェラー財団の援助を受けている。また自社製の除草剤ラウンドアップに耐性をもつ遺伝子組み換え作物をセットで開発、販売している。バイオ化学メーカーとして世界屈指の規模と成長性を誇り、ビジネスウィーク誌が選ぶ2008年の世界で最も影響力があった10社にも選ばれた。一方、民間療法と有機栽培を強力に推奨し遺伝子組換え作物を拒否している団体であるNatural Societyは、モンサント社の遺伝子組換え作物やラウンドアップなどが人間の健康と環境の両方を脅かすとし、モンサント社を2011年最悪の企業に認定している。
 1901年、ミズーリ州セントルイスに、ジョン・F・クイーニイにより創業。モンサントという社名は妻のオルガ・モンサントに由来する。
 1920年代頃から硫酸、ポリ塩化ビフェニル(PCBs)などの化学薬品の製造で業績を上げ、1940年代からはプラスチックや合成繊維のメーカーとしても著名となった。
 本社の存在するセントルイスには世界屈指の規模を誇るミズーリ植物園 があるが、モンサント社はここのハーバリウム(植物標本保存施設)の建設に多額の寄付をしていることでも知られている。
 同社を有名にした商品の一つはポリ塩化ビフェニルであり、アロクロールの商品名で独占的に製造販売した。日本では、三菱化成(現三菱化学)との合弁子会社であった三菱モンサント化成(現在は三菱樹脂へ統合)がポリ塩化ビフェニル製造メーカーの一つであった。また、農薬のメーカーとしても著名で、ベトナム戦争で使われた枯葉剤の製造メーカーでもある。この枯葉剤には不純物としてダイオキシン類が含まれており、後に問題となった。
 除草剤ラウンドアップを開発し、近年ではラウンドアップに耐性をもつ様々な遺伝子組み換え作物(ラウンドアップ・レディー)を分子育種して、セットで販売している。なお、ラウンドアップの有効成分グリホサート自体の特許は既に有効期限が切れている。その他、雄性不稔や病害虫抵抗性やストレス抵抗性や成分改変の様々な組換え品種も開発している。モンサント社の遺伝子組換え作物の強引なシェア確保商法に対して欧州を中心に問題となっている。そのため、農業分野における米国の世界支配を支える企業という批判の的となることがある。

「ドール・フード・カンパニー」(Dole Food Company, Inc.)
アメリカ合衆国の多国籍農業・食品企業。通称ドール(Dole)。果物・野菜、特にバナナやパイナップルなどの生産・販売を手がけている。
 1851年、キャッスル&クック社として設立[1]。「ドール」の名は1968年に吸収合併したハワイアン・パイナップル社の商標で、1991年より社名となった。なお、現存するキャッスル&クック社は、1995年に不動産管理のために分社された別法人である。
キャッスル&クック社はサミュエル・ノースラップ・キャッスルとエイモス・スター・クックが、ホノルルに商事会社「キャッスル&クック社」(Castle & Cooke)を設立。
ユニテリアン主義の宣教師の息子として1877年にマサチューセッツ州ジャメイカ・プレインに生まれたジェームズ・ドールは、1899年にハーバード大学から農学と経営学の学士号を取得した後、従兄のサンフォード・ドールが大統領を務めていたハワイ共和国(当時)に移住した。ジェームズ・ドールはオアフ島の中央部の平野に農園を開き、1901年にハワイアン・パイナップル社 (Hawaiian Pineapple Company) を創業した。彼はホノルル港近くに工場を建設し、最新鋭の農業機械購入やラナイ島・マウイ島での農園開設で「パイナップル王」と呼ばれるまでになった。
 ハワイアン・パイナップル社は1932年、ハワイで「ビッグ・ファイブ(英語版)」と呼ばれる5大サトウキビ農園主の1つ、キャッスル&クック社(C&C)に株式の21%を取得され、1961年には完全に買収された。キャッスル&クック社はラナイ島の95%を占める所有地をはじめとして世界中に農園を築いた。
 1964年、全米2位のバナナ輸入業者スタンダード・フルーツ社(英語版)の株式の55%を取得、1968年100%取得した[1]。この会社は1967年には、日本向けバナナの生産会社スタンフィルコ社をフィリピンのミンダナオ島に設立した。1978年、カリフォルニアのレタス・セロリ生産大手のバッド社 (Bud Antle Inc.) を取得し[1]、1989年に Dole Fresh Vegetables とした。1970年代以降ハワイの農業衰退で経営難に陥り、合併の後1991年にドール・フード・カンパニー・インクと改名した。
 2012年5月2日、キャッスル&クック社(新)の管理するラナイ島の農場のほとんどが、ラリー・エリソンに売却された。
 2013年4月1日、「アジアにおける青果物事業とグローバル展開する加工食品事業」が伊藤忠商事に売却された[3]。「ドール」ブランドではさまざまな加工食品も製造販売されている。
 また、アジア事業も同時に伊藤忠商事に売却された。事業売却前のドール社は世界各地の90カ国以上に拠点を持っていたが、現在のドール社の事業エリアは主に北米と欧州(若干が中南米・アフリカ・中近東)である。

「チキータ・ブランド」
 アメリカ合衆国の企業。かつての社名はユナイテッド・フルーツ(英語:United Fruit Company、略称:UFCO)。第三世界諸国のプランテーションで栽培させたトロピカルフルーツ(主にバナナ)をアメリカ合衆国やヨーロッパで販売した。1899年、合併により創業。1984年に現社名に変更。
 1871年にヘンリー・メイグス(英語版)がコスタリカ政府と首都サン・ホセからカリブ海の港町リモンまでの鉄道建設の契約を結び、彼の甥のマイナー・C・キース(英語版)に事業を手伝わせた。1873年、労働者向けの安い食料として鉄道沿いにバナナの栽培が始められた。1877年にメイグスが亡くなるとキースが跡を継ぎ鉄道完成後は非常に低い賃金で労働者にバナナを栽培させて母国アメリカ合衆国で販売しようと考えた。数年後にはグアテマラの国土の大部分を獲得した。
 1928年11月12日、コロンビアのサンタ・マルタ近郊の農場で労働者のストライキが勃発、12月6日コロンビア軍の将軍、Cortés Vargasによって鎮圧されたがこの時犠牲者が多数出た(バナナ労働者虐殺事件(英語版))。犠牲者数については47人から2000人まで諸説ある。この事件に対してはホルヘ・エリエセル・ガイタン議員がユナイテッド・フルーツ社のために軍が行動したと非難した。一方、軍は共産主義革命対策だと主張している。
 1930年には当時中米最大の企業だったものの、ユダヤ系ロシア人のバナナ王サミュエル・ザムライに買収され、1970年まで繁栄を続けた[1][2]。アメリカ合衆国国務長官を務めたジョン・フォスター・ダレス、CIA長官を務めたアレン・ウェルシュ・ダレスは同社の大株主である[3]。ホンジュラスの経済も参照されたい。
 1948年にボゴタでのOAS会議中、当選確実といわれた選挙直前にコロンビア自由党員だったホルヘ・エリエセル・ガイタンが暗殺されたことをきっかけに、激昂した自由党派の市民と保守党派の市民が衝突し、ボゴタ暴動(英語版)(ボゴタソ)が発生した。この一連の暴動により、コロンビアは「暴力の時代(英語版)」(1946年 - 1950年)を迎え、死者数は全て併せると20万人にも及ぶと推測される。
 中南米、特に当時「バナナ共和国」と呼ばれたグアテマラなどでバナナやパイナップルなどの果物の取引において大きな影響を与えた。また政治活動も活発であり、1954年にはCIAと組みグアテマラのハコボ・アルベンス・グスマン政権の転覆(PBSUCCESS作戦)に成功した。
 本国の従業員に対する厚遇は有名とされ、社屋はもちろん専門の病院や学校を無料で開放し、給料も高かったと言うが、アルベンス政権以前のグアテマラでは全人口の3%が国土の70%を所有しており、著しい貧富の格差があった。 ユナイテッド・フルーツ社は農園経営においてグアテマラの超富裕層と結託していたが、アルベンスが選挙後に公約どおり大規模な農地改革を実行したことを見て、改革の進展により既得権益を失うことを恐れたユナイテッド・フルーツ社とCIAの活動により、過剰に親ソ連派として攻撃され失脚させられた。
 1970年にユダヤ系ポーランド人の乗っ取り屋イーライ・M・ブラックが73万3000株を買収し、ユナイテッドブランド(United Brands Company)に改名。しかし、1975年には膨大な借金を抱えてニューヨークのパンナムビルから飛び降り自殺する。
 1984年にアメリカン・フィナンシャル・グループのカール・リンドナー (Carl Lindner, Jr.) が主導権を握り、社名をチキータ・ブランド(Chiquita Brands International)に改称。前CEOのカール・リンドナーを通じて大統領一家であるブッシュ一族と関係が深い

「パーデュー・ファームズ」(Perdue Farms)
 アメリカ合衆国メリーランド州ソールズベリー(Salisbury, Maryland)に本部を持つ鶏肉処理会社
1920年、アーサー・パーデュー(Arthur Perdue)、妻パール・パーデュー(Pearl Perdue)により鶏卵販売開始
1925年、産卵鶏販売開始
1939年、フランク・パーデュー(Frank Perdue)参加
1940年代、ブロイラーチキン販売開始
1950年代、A.W. Perdue & Son として法人化
1960年代、穀類、植物油生産開始
1968年、ソールズベリーに鶏肉処理施設開設
1991年, ジム・パーデュー(Jim Perdue)会長就任
2005年、合衆国内第3の規模を持つ食用鶏肉生産(年間生産量:59,320,000 ポンド)

「J.R.シンプロット社」
 創業者であるJ.R.シンプロットによって1929年に設立され、ポテト事業を中核としたアグリビジネス事業及び食品販売事業を展開している。世界で初めて冷凍フライドポテト製品の開発に成功したフレンチフライメーカーであり、製品輸出先は世界40ヶ国に及ぶ。

米国の巨大冷凍フレンチフライドポテトメーカー、シンプロット社が米国連邦政府に遺伝子組み換えジャガイモの利用を申請している。米国農務省は今月3日シンプロット社の遺伝子組み換えジャガイモの申請について公表した。詳細は以下の米国連邦政府アドレスから確認することが可能だ(https://www.federalregister.gov/articles/2013/05/03/2013-10504/jr-simplot-co-availability-of-petition-for-determination-of-nonregulated-status-of-potato#h-8)。シンプロット社はこの遺伝子組み換えジャガイモにInnate Potatoes(生来のじゃがいも)というブランド名をつけて呼んでいる。同社によればジャガイモの遺伝子を使用して打撲による変色とアクリルアミドの生成をいかにして抑制するかを新たに設計する遺伝子組み換え技術を解明したとされる。同社はこれをInnate Technology(生来技術)と命名している。遺伝子組み換えにジャガイモ品種の遺伝子や野生種のジャガイモの品種の遺伝子を使用する点はオランダが提唱しているシスジーンテクノロジーと同じである。 米国において遺伝子組み換えジャガイモの市場販売を目指す動きはこれが初めてではない。遺伝子組み換え技術で様々なGM作物を世に送り出してきた米国のモンサント社は1990年代後半にニューリーフ(New Leaf)という土壌微生物の遺伝子を利用したジャガイモ品種を市場に導入して、一時北米地域で普及しかけた時があった。しかしながら、ファーストフードのマクドナルドが遺伝子組み換えジャガイモを使用しないことを宣言したため、生産者の生産意欲が急速になえて、現在はほとんど作付されていない。モンサント社によればニューリーフは米国及びカナダ政府において認められている登録品種であり、ジャガイモの大敵害虫「コロラドビートル(日本には生息していない)」に対して耐性を有していて、殺虫剤の利用を80%以上削減できるという。同社のニューリーフシリーズの品種には5品種あり、米国の代表的品種をベースにしてコロラドビートルやYウィルス病に耐性のある品種を世に送り出してきた。しかしながら、マクドナルドの事件以来実際の普及についてはペンディングの状態が続いている。
 モンサント社の例を鑑みれば、シンプロット社のInnate Potatoesが米国及びカナダ政府から認証されるのは確実と考えられる。問題は今回もシンプロット社の大口ユーザーであるマクドナルド社の意向である。 マクドナルドが使用しないと言えば、シンプロット社のGMポテトもモンサント社のニューリーフと同じ結末を迎える公算が高い。以前と違う点は土壌微生物のようなジャガイモに無関係な生物の遺伝子を組み込んだのではなくて、ジャガイモそのものの遺伝子を利用した点であり、消費者の理解が得られやすいのではないかという点にある。もしもこのジャガイモ品種が承認されれば、現在のTPP交渉の中で日本に対して受け入れを認めるように求められる公算が非常に高い。成りゆき次第では米国から日本へ輸出される冷凍フレンチフライドポテトに混入して、表示が一切なされないなどということも起こりうる。TPP交渉だけでなく、その背景となる米国の農業で何が起きようとしているか、目が離せない状況である。

参考---http://www.opb.org/news/article/npr-idaho-company-seeks-to-introduce-genetically-engineered-potato/










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