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02 物と街


闇の中で目を覚ます
ホテルアネト114号室の窓はとても小さいので、光が差し込まない。
日本から持ってきた大きな荷物は、二人で4つ。
100リットルのトランクが二つ。
一つはインタネットで買った安いトランク。
もう一つはブラニフのしっかりとしたトランク。
それにクルセイダーズという110リットル入るリュックが一つに、赤いボストンキャリーバッグが一つ。これも80リットルは入る。
この4つに加えて、それぞれが機内持ち込み用のキャリバッグを持っているので、合計6つの荷物を管理せねばならない。
これで一年間のすべての荷物。
人間が一年暮らしていくのにはこれで十分な量だ。
しかもそのうちのリュック一つ分は食料。
そしてトランクの半分は書籍だ。
まだまだ減らせる量である。
衣服やその他の生活用品などそれほど多くなくても構わない。
今回の旅に際して様々なモノを処分したが、どれほど多くのモノに囲まれて自分が生活していたのだろうか。
人が生きていくのに、そんなにたくさんのモノは必要ない。
これで一年暮らせるということは、これで一生暮らせるということだ。
自分の意識からこぼれていくようなモノは必要ないのだろう。
目が行き届き管理できる量だけで暮らすのが本来のあり方ではないかと思えてくる。

我々はモノを手にいれることで幸せを手にいれることだと、これまで勘違いしてきた。
しかし旅に出るとその価値観は反転する。
いかにモノを減らしていくのか。いかにその環境にあるものにプラグインして乗り切るのか。
そういうモードに切り替わる。
移動生活を中心にした視界は、居住生活とはまるで違っている。
もちろん、この移動生活を可能にしているのは、すでにモノやサービスが世界中に溢れているからだ。
生存のための、そして生活のための基本的なインフラやサービスが世界中で整っているからこそ、現代の移動生活が支えられている。
それは狩猟民族だった頃の移動生活とはまるで違う状況である。
しかしその精神や価値観には通じるものが見え隠れしている。
プラグインする先が都市的なサービスであるのか、自然の恵みであるのかの違いはあるが、何かに固執せずにその場にあるものを活用することで何とか乗り切るという智恵が要求されることだ。
それがブリコラージュな智恵なのだろう。

今日は街を歩きながら、基本的な都市のサービスを確認していくことにする。
朝食は家で取るのではなく、近くのカフェへ行けば2.5ユーロでハムとチーズを挟んだパニーニと、カフェラテが飲める。
財布にお金がなくなれば、クレジットカードで支払うか、町中にあるATMで引き出せば良い。
徒歩での移動で疲れればメトロかタクシーに乗る。
ホテルアネトの114号室には光が差し込まず、ベッド以外のスペースはほとんどないが、カフェに行けば光をいっぱい浴びる席で仕事することも出来る。
都市の中に生活の機能が分散されていることで、生活を部屋の中で完結させる必要がなくなる。
究極的に言えば、寝室だけプライベートに確保できれば、後は他の人とシェアしているということになる。
この状況では建物の持っている最も重要な機能が安全な睡眠の確保であることがよく見えて来る。

バルセロナは約160万人の都市であるが、人口が約850万人の東京23区よりも人口密度が高い(約158人/ha)
見かけ上の人の数はもっと多いのは、観光客の数が風景の中の人の割合を増やしているからだ。


 特に僕たちが泊まっているホテルは旧市街地のラバル地区という超中心地にある。目抜き通りのランブラス通りから3本ほど入ったところでカタルーニャ広場からも歩いて5分ほどだ。
だからあちこちに朝から晩まで観光客がうろついている。
カフェやレストランのメニューもダブルスタンダードになっている。
僕らが入ったカフェはおそらく地元の人々が行くカフェだ。
しかし歩きながらいくつかの店を見てみると、朝のメニューから8〜9ユーロというカフェも少なくない。
たった2、3日の滞在であれば、その出費は大したことではないのかもしれない。
しかし毎日ここで暮らす者にはその価格は手が出ない。

特にここで暮らす人々は基本的には都市サービスを供給する者達だ。
移民や低賃金の労働者達に8ユーロの朝ごはんは高すぎるだろう。

一番の観光資源であるこの旧市街地の中は、3種類の人間がいる。
まず居住者。
そして観光客。
その観光客を相手に商売する人々。

しかし観光客と商売人の2種類の人間が街の風景のほとんどを占めているように見える。
居住者は黒人やアラブ系の人々が目立つ。
基本的には観光客相手に商売する人々に雇われている人々だと考えていいだろう。
こういうマイノリティや社会的に弱い立場の人々が都市の中心に取り残されて、サービスに奉仕する構造がある。いわゆるインナーシティ問題と呼ばれている問題だ。
日本でも一時期インナーシティ問題が大きな問題だったが、再開発が行われることで今は逆に人々が都心回帰を起こしている。
それは基本的には大規模マンションが建つという形で居住者を呼び戻している。
しかしバルセロナのような旧市街地のアーバンスケープを観光資源にしているような場所ではそうはいかない。
再開発することで古い町並みがなくなってしまうと観光資源を潰すことになる。
だから中世時代の石造りの建築のままでリノベーションやコンバージョンを図っていかねばならない。
それがまだ追いついていないのだろうか。
まだインナーシティ問題がも残っている。
特にラバル地区は顕著なようで、地価にそれが反映されている。

商売人の質も変わってきた。
居住者を相手に商売するのではなく、観光客を相手に商売をする方が儲かる。
だから業態を変えて生き残ろうとする人々が増えてくる。
20年前の2000年に僕が訪れたバルセロナは、まだ観光化がそこまで進んでいなかった。
中でもサンジョゼップ市場は、街の人々で賑わい、毎日の夕飯を買い出しにくる場所だった。
僕はその市場の風景が大好きだったのだが、今は変わりつつある。

市場の中には観光客を相手にした飲食店がかなりの数出ていて、料理には高い値段がつけられている。
もちろん野菜や魚なども普通に売られているが、大きな魚を観光客が買うとは思えない。
地元の人々がここで普段の生活のための食材を買っているのかどうかはわからない。
市場の外にある屋台でお婆さんが買い物をしているのを見かけたが、おそらくそちらの方が安いからであろう。
そして地元の人々は市場に行く代わりに、近くにあるカルフールのようなスーパーマーケットで買い物を済ませるのではないか。
僕が好きだった地元住民のための市場はすっかり観光客のための市場に変わってしまった。

街は巨大なテーマパークになっている。
そして、その遊び場を維持するために奉仕労働をする人々が住んでいる。
遊び場にやってくるのは、外からくる観光客か、街の外に住む商売人だ。

観光化によって、街は集客のための装置となるのかもしれない。

20170331

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