文化の味

 大阪、東京、京都、神戸、新潟、福岡、札幌、名古屋、広島、岡山、金沢...と日本の渡り歩いていると、どの都市でも普遍的に見られる人の佇まいと、その都市固有のローカリティが見える。その間で文化の成熟とは何かを考え続けている。
 共通して地方が抱える“まなざし”の問題と可能性の両方について、いつかは考えを整理せねばならない。人は見たいものにまなざしを向けるので、己に加えられる批判は見たくないものだ。だからといってまなざしを向けないでいるといつまでも成長出来ないどころか、時が過ぎれば大変なことになっていることもある。難しい問題だが、タイミングを見極めつつじっくりと向き合うことしかないのだろう。
 料理のクオリティをいくら上げても、それを食べる人の味覚のレベルと釣り合わなければ満足感は得られないことが多い。それどころか、いくら高級な食材であっても子供が食べるためには、カレーにせねばならないという現状があちこちである。カレーの方が喜ばれるので出し続けていると、高級な食材でなくても良くなる。そうすると舌も鈍ってくるので、高級な食材はどんどん必要なくなって来る。子供の舌が喜ぶからと、化学調味料で味付けした濃い食べ物ばかり出すと、その子供は将来どうなってしまうのか。それでも喜ぶからと出し続ける親になるのか、それとも厳しく戒める親になるのか。あるいはその意味をちゃんと説いて理解と共感を得る賢い親になるのか。そのためにはまず親がちゃんと質を理解していなければならない。
 文化や芸術も全く同じことが言える。やっぱり人類の進歩のためには全ての人の舌は成熟するべきだと思うので、高級な食材とハイクオリティな料理を出し続けることが大切だと思う。

それは料理だけではなく、文化の課題かもしれない。

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