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人は哀しいものである

マルセイユから来日している現代サーカスのアーティストのカミーユ・ボワテルが、高松での公演を終えて関西へ引き返してきたので、奈良へ一緒に出かけることにした。
カミーユは僕らが運営している緑橋の♭に一週間ほど滞在していたが、その時には僕の方が大変な状況であまり話ができなかった。
今回は時間があまりなかったので二カ所ぐらいしか行けなかったが、道中一緒に見た風景は印象に残っている。何か重要なディスカッションをしたり、意味ある言葉を交わしたわけでもないのだが、彼の優しい人柄というのは十分に伝わってくるのだ。
 高松での彼の舞台は見ることができなかったのが残念だが、話を聞く限りでは表現の視点も僕と近いところにあるように思えた。
彼の「フラジャイル」というコンセプトについてちゃんと聞いたことはないし、話したことはないが、おそらく自分ができる範囲の動きやパフォーマンスではなく、それが崩れるか崩れないかの微妙な境界線を探ろうとしているのではないかと思う。
 一度一緒に即興パフォーマンスの稽古をしたことがあるが、こちらの動きや表現に対して非常に敏感に反応して、とてもスリリングな時間だった。
 最近はもっぱらその人物が持つ人柄と、選択する表現について考えをずっと巡らせているが、彼がサーカスを選択した理由がどのあたりにあるのだろうかと気になっている。
彼のたたずまいはとっても優しくて、自由奔放さを感じる一方で、どこか哀しみに満ちているということが嗅ぎ取れるのだ。それは生来持って生まれたものだとは思うが、その哀しみは彼個人の中にある哀しみというよりも、もっと普遍的な感覚が伝わって来るところに、僕自身は自分と非常に近いものを勝手に感じて共感している。
「人は哀しいものである」ということは僕自身が何かを表現する上で大切にしているテーマの一つで、そこから生まれてくる優しさについてずっと考えている。
彼が選択したサーカスという表現形態はそれが宿命づけられている気がする。危険と常に隣り合わせの表現であり、華やかで脚光を浴びる舞台の上でも、裏側にあるどこか暗い影のようなものが漂ってくる。
ランドスケープというテーマでそれを表現することはなかなか難しいことかもしれないが、寂寥感を感じる風景というのに胸を打たれるという経験は洋の東西を問わず人間の根底に流れているものだと思う。
決してポジティブな表現ではないが、前向きな表現だけが人を救済するのではなく、哀しみが人を強くすることも優しくすることもあると僕は思っている。 即興パフォーマンスの時に僕はただ舞台で”泣きじゃくる”ということだけをしてみたが、彼は日本語で「お父さん」と叫びながら僕を抱きかかえるという形で呼応した。
 言葉を交わしているわけではないが、たたずまいからその人がどういう人物であるのか、何を愛して何を憎んでいるのかということは伝わって来る。それはいくら隠そうとしても隠しきれるものではないのだ。
 そのことをちゃんと話したことはないし、言葉にすることはきっと無粋なのだけれど、おそらく彼もどこかで人は哀しいものであるということを感じて生きているのだと思う。地域や人種や民族を超えて、そうした感覚を共有できることに感謝する。

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