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はじまりの物語【2024創作大賞応募作品 総集編⠀1本です】


あらすじ

ヘビには水を通って天上と地上を自由に行き来することができるという不思議な力がありました。昔はよく旅をしていたのに、今では水辺のほとりに立つ木の見張り番をさせられています。木の下からなにか楽しそうな声がします。この果を取ることは禁じられているのに、そんなこと気に留める様子もありません。ふと、この木の下の者どもと地上に行きたいと思いが沸いてきました。むかしの旅の記憶が蘇ってきます。それは遙か遠い昔はじめてコトバを交わしたかの者と、その血をひくこの者。それは平安といわれる時代。一緒に濃くて長い旅をした。これはそんな旅の記憶のおはなしです。

エピローグ


 ここは地上のだれもが憧れる天上の世界、天帝といわれる絶対上位の君主が治める理想郷だ。皆が天帝に認められその理想の世界に生きたいと自分磨きに余念がない。より賢くよりスマートに、向上心ある者だけがその理想郷に辿りつく。

 そんな理想郷の片隅にひっそりと立つ木があった。そよそよと風にその葉を揺らし、葉の間から差し込む光は優しく暖かい。木の幹は体を預けるのに丁度よくそこに立ち寄ったものは戻ってこなくなる、そんなうわさまで立つ木であった。うわさになるのはそれだけではなかった。その木はふしぎな果実をつける。赤くてふくよかな弧を描きそっと触れると思いのほか冷たく硬い。その果実を食べると「自己肯定感」を手に入れ上昇志向を捨てるという。みんなが同じ方を向いてこそ秩序が保たれる。この木にやってくる者たちを見張るように天帝は ヘビに仕事を与えた。
 
  ヘビは木を訪れる者達を観察する。さらには食べてみるようにそそのかす。果実を食べるかどうかひとつでああでもない、こうでもない。なにかしら理由をこじつけて食べるようとするもの、しないもの、様々だ。天帝のように迷いのない絶対君主をそばで見ている ヘビの目にはその者達が滑稽に映り、いとおしくさえ感じるようになった。
 しかし食べようとしたものは天帝に報告をしなくてはいけない。報告したあとも観察をしなくてはいけない。
   報告をうけ捕らえられたものは自分はなんて弱いのかと自分を責め嫌悪する。あの果実に目を輝かせ、どんなに美味しいだろうと想像しときには詩を読み曲を奏で歌い踊るそんな美しい者達がである。
     
     ある時、ヘビは決意をした。
     この者達と旅にでるのだ。

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これは『なんのはなしですか 』にまつわる物語⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆


第1章

1.蛇のふしぎな力


 そうだ旅に出よう。
 
 そう決意したヘビは以前旅した頃の記憶を思い出す。昔はよく旅をしていたのだ。地上の世界とは 水の奥深くで繋がっている。水の奥深くは天上の世界と地上の世界、どちらでもありどちらでもない。水が繋がっているのか、繋がった空の映し鏡として水に不思議な力が備わっているのか。蛇にとってはどうでもいい話であった。
 湿ってひんやりとした泥の感触、それを十分に楽しんでからするりするりと水の中に入っていく。水面から頭をだして眺める景色が好きだった。しっかりと目に焼き付けて今度は水の底に潜り込む。底のぬかるみを目を閉じたままで進む。次にゆっくり頭を出したときは、もう地上の世界だ。
 地上の世界でも水辺の近くが好きだった。ひんやりとしていて静かで風ににそよぐ木々のせせらぎも心地よい。ああ、そうか、監視の役目で動けない中でもこの木が旅の記憶に連れて行ってくれる。だから木を訪れる者達と旅をしようなんて気になったのだな。そう考えるとここを動けない木というものが少し気の毒に思えてきた。

 ”天上と地上を行き来できる”
 
 
これは紛れもなく ヘビに備わったふしぎな力であった。ヘビが謙虚であれば『与えられた』というのであろうが自力なのか他力なのか、ヘビが ヘビであるということと、その特性はなんら変わることはなかった。つまりはじめから備わっていて頑張る必要がないのである。ヘビはヘビ以外の何者かになろうとも思わなかった。
 
 あくまで われわれ他と交わることはない。

 これは感情においてもそうであった。たまに天帝のようにあれやこれや言ってくるものもいる。そういうときは「呑む」のだ。取り込んで変容したり 同化するのではない。ただ「呑む」そこに葛藤はない。暫くして外に出せばいいだけの話だ。しかし、水辺を訪れる地上の人間たちは違った。むすめを差し出せ、年貢を納めろ、もっと働け。いくつもの災禍を逃げ惑い、逃げ場に困って水辺までやってくる。

 ヘビは草むらに隠れて そっとささやく
 舌をチロチロするほどの ほんの小さなメロディ

 村では話せなかったことを蛇のいる木陰でぽつりぽつりと語り出す。泣くばかりで言葉にならないものもいる。そんな「おもい」も取り出すことができる。これもまた ヘビのふしぎな力であった。
 ヘビは ささやき を続ける。これもまた聞き取ることができない、ほんのちいさなものだったが素直な人間は そのささやきに従った。

 「重い」を外に出し始めた

 ヘビはよしよし、と一肌脱いだ。ここでいう肌は皮である。古い皮を脱ぎすてて柔らかな皮が現れる。新しい皮はよく伸びる。よく曲がりよく伸びる皮を飾るようにウロコがキラリと光る。

さあ、その「重い」を呑んで進ぜよう
いくつもの「重い」を呑み込んだ

 ヘビは水辺を訪れる者の「重い」を呑み込んだ。はじめは ほんの気まぐれだった。語りはじめたものをじっと観察していたら、のどの辺りに黒い固まりがみえた。あの固まりをとってみたい。

 チロチロと舌を出しながら 囁く。届いたか届いてないか、そのぐらいのところで、うつむいていたものがぱっと顔を上げる。ヘビがすっーと深呼吸するように大きく息をすったその瞬間、ぽんっと中から飛び出してくる。それをパクっとひと呑みするだけだ。

 ヘビが「重い」を呑んだあとは皆一様にすっきりとした表情でなぜだか手を合わせたりして 帰っていく。ときには 呑まずに 外に出してやるだけにした。そうしたときには顔も上げずに肩を落としたまま とぼとぼとまた当てもなくどこかに立ち去って いってしまう。

どうやら「受け取り」が大事らしい。

 また「重い」は一様ではなかった。重さも違えば 色や形も 様々だった。喉元にあるものもいれば、胸につかえているものもある、腹に溜まったものは温度まで違っていた。あるとき 夜遅く何人もの男たちが水辺にやってきた。暗くて見えにくいが皆 腹に抱えているようだ。蛇は 男たちに 囁いた。
 
するとドカーン と大きな「重い」が口の中に飛び込んできた。

 その重さと勢いで一気に中腹にまで達したかと思うと、腹の中でも四方に跳ねてよじれ に よじれる。それに熱くて熱くてたまらない。大きな「重い」で膨れ上がった躰を、熱さと勢いで身をよじらせながら空に舞い昇る。 
    ヘビは 呑み込んで大きくなった躰が見つからないように姿を見えないようにする力も持ち合わせていたが、この時ばかりはそうはいかない。見られていることにも構わず精一杯の力で高く高く昇っていく。そして口を上に大きく開いたままで今度は全速力で下降した。

「重い」が落下する速さより蛇の躰が下がっていくほうが早かった。
「重い」 は腹の中でぶつかるごとに角がとれて丸く光る大きな玉になっていた。

 男たちは空に立ち昇るヘビをみてこの世ならざるものをみた、と驚き慄きおののき丸い玉がぽかりと宙に現れたのを見て奇跡がおきた、と仰天した。すっかり腹の「重い」もなくなったので奇跡に間違いはなかった。そして町に帰り この奇跡を伝えるのであった。



 その日を境に状況は一変した。

 ひんやりと気持ちの良い水辺で、優しい風に応えるようにそよぐ木の葉、そんな中で過ごす安らぎのひとときがにわかに騒がしくなった。昼夜を問わずあの奇跡の正体をあかそうと、興味本位で立ち入るもの、「重い」がなくなるように「願い」にくるもの、さらには奇跡に正体というものがあるなら留めおき、我が一族の繁栄を長きにわたらせたい、そんな権力者がかけた報奨金目当てに血眼になって探りにくるものもいる。

 そろそろ ここも潮時だ、天上に戻るとしよう。

 その前にあれを取りにいかねば。 ヘビはキレイなものがすきであった。
    それを集めて水と光によってキラキラとキラめく様子を眺めるのがなによりの喜びであった。思いのほか長く住み着いてしまったのは「重い」を外に出すたびに出てくるキラキラと光る玉に魅了されていたからだ。
 
    これで全部だ。ヘビはキラキラ光る玉を大切にお腹にしまい込んだ。

 そのとき、我とは異なるもののイメージが頭の中に急に流れ込んできた。
そのまま気を失っていたのであろう。白木のいい香りがして ヘビはうっすらと目をあけた。そこは縄が張り巡らされた社の中であった。

 「やあ、お目覚めかい。」
 若い男の声がする。ぼんやりとした視界に柔らかく軽やかにはねた髪の毛が入ってくる。声の主はこちらの状況に構いもせず感心した様子で言った。
 
「本当にキレイな玉に浄化できるんだね。」
「お腹に大事に持っていた玉も預からせてもらったよ」

そこでヘビはカッと目を見開いた。なんだと、あの天上に登っていくかのごとく苦労してできたあの玉をか、

「すごいよね、あの玉!びっくりしちゃったよ」

そうだろうとも、二度とはごめんだが、もう次はないと思うとひときわ大事に思えてくる。ヘビにとって 大切な宝物であった。

「でもね、僕はこっちが好きだけどね」

そういって首から下げた皮袋から取り出したのは少し翠がかったきらきらと光る透明な小さな玉であった。まだ頭が朦朧もうろうとしている。

この目の前にいる青年は ”かの者” なのか



2.コトバの力



かの者は我が初めて「重い」を取り出した者だ。

水辺にやって来ては変な術を試していた。なんだろうとコッソリ近づいたのだが、こちらを向いて二ッと笑う。
 ヘビを見て 二ッと笑うだと大抵のものはヒッと驚いて気味わるがり石を投げてくるものもいる。なのに、二ッと笑い、
 「やあ君、こっちにおいでよ。この壺、中はひんやりして気持ちがいいよその蛇体、くねらせて入るかどうかやってみないかい」なんていう。
「なあに、簡単さ、コトバの力を使うのさ。息に思いを乗せてだすのがコトバだよ。表にでたなら見えるから。どんな姿を見たいかコトバにしてみるんだ。」

 かの者が思っていること、我に語りかけてくることは自然と理解できたしかの者も我の思っていることがわかるようだった。わかるのだから、 コトバ の良さなぞ分からなかった。だけど我に向かって 語り掛けるかの者のコトバは 嬉しかった。そういうときの目がとってもきれいですきだった。澄んだ瞳がキラキラと輝く、その中に我が映し出だされているようだった。

 けれども時折しゃべらない事があった。コトバの力を熟知しているがゆえにコトバに現わしてはいけないことに関しても敏感であった。ふと、かの者の喉元に黒いものが見えた。そのせいで明るさが陰っているのではあるまいか、そのものを取ってみたい。かの者はそれを感じでこちらを向いた。

「いいよ君になら。 でもお願いがある。こうつぶやいてみてくれないか。」
  

 これは出せない「おもい」を出せるおまじないだよ、といった。
ヘビは コトバを発してみるのは初めてだったがやってみた。頭の中で思い浮かべる。舌の先が2つに分かれていて聞くようには音が出ない。
それでも懸命に発することをやってみる。何度やっても上手く発声なんかできやしないが、できている姿を思い浮かべた。届けたい、その気持ちを息に載せた。それが通じた。

かの者は、なんのはなしですか、とそのままそこにいてくれるだけでいいんだけどね、といって話し始めた。ヘビははじめてその「おもい」「呑んだ」。そしてかの者がひとしきり話したあとなんの咀嚼もせずに出した。でてきたものはきらきらと光る玉だった。少し翠がかっているのがより透明さを増してみせる。

やあ!なんて事だ。これはすごいね!君みたいなヘビははじめてだ!
「それにすっかり軽くなったよ!」とクシャクシャの笑顔でいった。それでヘビは出したものは「重い」なのだと思った。

    かの者は言った。僕の中から出てきた 「おもい」を君が受け取ってくれて出来たこの玉。君にはわるいんだけど僕に持たせてくれないか。

・代々ふしぎな力をもった一族であること
・16才になるときその秘密を伝承すること
・決して人に漏らしてはいけないということ

そんな秘密があったという。
「抱えるには少々重くてね、人じゃない君にならなんて賭けてみたのさ。」
「聞いてくれるかどうかをね。」

    そうだ、これは ヘビの本来もつ力ではない、コトバの力なのか。
    確かにこの取り出した玉はキレイだ。でもその玉が映り込んで輝く瞳はもっとキレイだった。ヘビはわかったというように、クルクルと体を巻いて頭をぺたんと土につけた。かの者のそばにいるのは気持ちが良かった。他の人間の様には ジャマにはしまい。近くにいれば見せてもくれるだろう。

 「それとね、僕の思い過ごしならいいんだけど君のこのふしぎな力、この玉のことは人間には知られない方がいいと思う。人間は欲深いからね。」
ふっとまたかの者の心に影が見えた気がした。
 「それにね、臆病なんだ、目に見えないものや得体の知れないものをとて  も恐れる。だから君のことを恐れて害をなすかも知れない。君のしたことは誰も聞いたことも見たこともないからね。だから秘密にしておこう。」

 たしかそんなことを言っていたのに、さっき、この者はこんなきれいな玉に「浄化」できるんだね、と申したな・・・

「やあ、やっとこっちを見てくれたかい。さっきは無理やり社に呼んで済まなかった。ああでもしないと人に見つかってしまうだろ。大きな玉をお腹にいれたヘビなんて誰も見たことないからね。」
    そういって二ッと笑うこの者は、かの者の血族か、やっと朦朧としていた頭がはっきりしてきた。

 かの者以降、次の者に秘密を伝承するときに首から下げた鹿袋に入ったこの小さな光る石が渡されるようになったこと、そして我とかの者の秘密も受け継がれるようになったと語る。かの者とその子ども そしてまたその子とこの 人は不思議と人でないものと通じ合える。人と人とにおいてもそうだ。この不思議な力は、その感じたことを「名づけ」、「コトバ」にすることでみんなが生きやすくなるように使いなさいと代々教えられていた。

「コトバ」は記すことでより効力を生じる。

     たくさんの人が押し寄せて疲れてるだろう。この社の四方には、まじないの文字をはってあるから安心して休むといいよ。また起きたら君としたいことがあるんだ。そういって社の別の部屋に姿を消した。
 ひさかた振りの静かな時間だ。へびはまたゆっくり目を閉じた。目を閉じたらまたかの者に会える気がした。蛇は3日3晩眠りつづけた。


3.かの者


 かの者は医を生業とするものであった。都の外れ草木が生い茂る水辺のほとりに煎じるための薬草を取りにきていた。壺はそのためであったが、なんでも唐ではヘビの仲間を酒につけ滋養強壮のために飲むという。
 慌てて逃げ出そうとするとアハハハハ と陽気に笑う。
「大丈夫 そんなことしないさ、ただ君の毒をたまに頂くかもしれないね。毒で制することができる病もあるのさ。中には人を廃するために使う者も いるが気が知れないね。」
 皮肉なぞいう者ではないが思いあたる人物がいるような口ぶりであった。

 目的は薬草だけではない。かの者は都の表通りを1本裏に入った筋で店を営んでいた。常日頃から子供たちが医術者を怖がらないよう軒先でする手品の練習だ。
「心と体がほぐれるだけでも随分痛みが和らぐからね。今日は運良く君に会えた。どうだい、壺から出てくるヘビの手品は。子どもたちの 笑顔 はいいよ。」

こどもは邪気がなくていい、ただ恐れもまっすぐにぶつけてくる。笑顔を向けられたことなぞ いまだかつてなかった。

「大丈夫だよ、ほら」

まあいい、そんな笑顔を向けられたら付き合ってやってもいいかと思えた。時折やってくる かの者とそうこうして過ごすひとときが楽しみになった。

   あるとき かの者がいった。

「一緒に来てくれないか、君のあのふしぎな力が必要なんだ。」

 壺に草で蓋をして隙間から通りを覗きみる。都は争いごとのあとで雑然としていたが人通りが多く活気に満ちていた。路地に入った辺りから、せんせーい、せんせーーいと賑やかに声がかかる。医業だけでなくよろず相談所のようであった。文字にも通じているから命名も請け負っていた。

 人は死ぬと名を残すという。

 かの者はひとの死期も察するようであった、終には叶うことのない願い。「残していくもの 残されるもの、それぞれ悔恨ともいうべき”おもい”。
 それを取り除いてやってはくれないか」

「思い煩いを コトバにすることで恐れを手放す。その力は信じているけど、出したコトバをどこに向けるか、その方向によってかえって人を傷つけてしまう。君が受け取ってくれるなら僕の時のようにきっと上手くいくと思うんだ。」

 名を持たず、天上の世界と地上の世界を行き来するヘビには分かたれることなぞ分からなかった。いとも軽々とその者達の「おもい」を呑んだ。名を残してひとり、またひとりと旅路を終える。

 一緒に過ごす時間が長くなっても、かの者はヘビを名付けなかった。名前は現世に縛るからね。まるで天上のことを知っているようでもあった。

蛇は「重い」を取り出したあとのキレイな小石ほどの玉をときおり天上に持っていくことにした。地上と天上の世界は時間の流れが違う。というより、時を刻んでいるのは地上だけだ。ほんの僅かな間 天上にいったとしても
地上では3日たっていた。少しずつかの者との時間が少なくなっていたがいつも変わらぬ笑顔でいるのでそうとは気づいていなかった。

 静寂に包まれた社の中で、目を閉じて幾つもの記憶をめぐる。
 ヘビの目にはうっすらと涙が滲んでいた。

そちはまだ あのことを根に持っているのか

天上世界の統治者である天帝が記憶に入り込んでくる

 あのこと、、地上で人々の「重い」を受け取り出した玉たち。その置き場所は蛇のお気に入りの水辺だった。水面の上からみるとより一層輝きを増すようだ。目を細めてかの者と一緒に取り組んでいることを誇らしく思った。

 さてと、地上に戻ろう、蛇が水に潜っていこうとしたそのとき体が布ですくい上げられた。すり抜けようと胴体をよじって暴れるが抜け出すことは出来なかった。蛇は天帝の面前に連れていかれた。そうして地上の世界に介入した咎でしばらく天に留めおかれた。

 光る石なぞ天上には存在しない。懸命に伝えようとするが「重い」など天上のものに理解できるはずもなかった。

 そんな中 ひとり また ひとりと生を終えたものがやってくる。
生きている間、「重い」を抱えているものは天上に入ろうとしてもまた地上に下りて行く。しかし ヘビの語る者達は、皆「軽く」天上へ上がってきた。

  善い行いをしたのであるな・・・

 やっと咎が解かれたときにはもうかの者と会うことは叶わなかった。
 すっかり目が覚めた蛇は脳裏に浮かぶ上帝を睨みつけようとした。

まぁ そんな こわい眼で睨むな
この社に連れてきたものはかの者の縁者であろう
その者とここで励むが良い

但しだ、あの晩大きな体で天高く昇る姿を
見られた咎は重いぞ
その者との役目が終わったら、縁は断ち切る
そして わしの仕事を手伝うのだ

 そういって天帝はふっと脳裏からきえた。


第2章

1.契り


この社に連れてきたものはかの者の縁者であろう
その者とここで励むが良い

 そうだ、かの者の血族、君としたいことがあるんだ、と言っていたな。
それが天帝のいう役目なのか、なぜ天帝は知っているのだ。ヘビは社の中の襖戸に顔を向けたその時、スッとあの青年が入ってきた。

「ゆっくり休めたみたいだね」

「僕の名は一葉かずは 君のことは聞いているよ。これから僕たちの計画をきいてほしい。といっても、君と話すことができるのは僕だけだから、仲間はあとで紹介する。」

 そういって、一葉は語り始めた。かの者は一葉の曾祖父であったこと。
へびと一緒に悩み苦しみを抱えるものに寄り添って施してきたことが評判となり裏通りにもかかわらず、宮中からも施術を請われるようになったと。

 曾祖父はその裏通りで皆で過ごしたいと宮廷に上がることは拒んだけれど
医業を極めることは役立つことだ、と祖父の代からは正式に国の典薬寮で学び医師くすしとして皇族・貴族の治療にもあたることになった。それで皇女の一人の病をなおしたことから僕が生まれたってわけ。

 宮廷に上がって国の根幹を担う偉い人の心身が健やかであれば民までも平安が訪れる。そう信じて身を粉にして頑張ってきた父は、3年前にその役目を引き継いで往ったのさ。そうあっけらかんと話す。かつて、『おもい』を引き継いだかの者はその喉元に役目が固く暗い影のように視えていた。しかし、一葉の体をじっと視るが、暗いものは一向に見当たらない。それどころか青白く心のうちから光を放っている。それに熱い。

 使命を我がものとして燃やし、進むべき道は見えている、ということか。ならば付き従うのみ、但しその覚悟は問おう。
よし、分かった。但し、条件がある。
その胸に下げたかの者との”光る玉”従った後には、我に頂こう。
「よし!いいだろう」一葉はそういって真剣な眼差しをこちらにむけた。

   もとより名も捨てるつもりだ
   自分の代でこの役目も完結させる 

「さあ、忙しくなるぞ!」
 今度は我を見たままニッと笑う。蛇の心まで熱くなった。

 しかし宮中にいたとは、。宮中にある池には何度か出たことがある。天上から水底を経て地上に出る際、ピーヒョロロロー、と流麗な音色が聞こえてくる。音のする方に引き寄せられ草陰からちらりと覗き見てみる。
 神楽にあわせて幾重にも重ねられた色鮮やかな衣を身に纏いひらひらと蝶が舞うごとき優美に舞い踊る。地上の天上とでもいうのか、そこだけ時の感覚が違う別空間のようだった。
 宮中にいたというのに、まだ青年だというのに、着るものも粗末であれば、その体も顔も痩せて骨ばっている。手などはその体のわりに大きく節くれだってゴツゴツとしている。父親が往って3年と申したか、一体どのように過ごしてきたのだ。

蛇の目が一葉のその手に向かう。ああ、と一葉も自分の胸の前にその両の手のひらをひろげじっと見つめた。これは自分一人で取り組んでいることだ
そうだなあ、話せば長くなるからこれをしながらでもいいかい、と部屋の片隅に置かれた一尺ほどの塊にかけてある白い綿布をひらりと剥いだ。

 それは一本の白木であった。
人型に丁寧に掘り進められておりもはや一体といった方がいいようだった。しかし、人と比べて頭の部分の尺がやけに長い。
 まだだ、あまねく見渡す御仏の姿にはまだまだ足りない
視線を木に向け自分の歩みをかみしめるように話し始めるのだった。


2.祖父(宇多天皇)の話


 父と祖父が医師くすしだったことはもう話したね。もう一人の祖父は今の法王宇多法王なんだ。一葉かずはという名をがつけてくれたんだよ。
 
もとより名も捨てるつもりだ、

ヘビは一葉のことばを思い出す。確かにそういった。どういうことだ、まだ状況がつかめずにいる、いったいどうやって過ごしてきたのだ。
 揺らめく炎に照らされながら一刃、一刃と力を入れすぎないよう加減して丁寧に彫りすすめていく一葉を見つめた。ここまで彫りすすめるのでさえ地上の時の流れの中では大変なことであろう。

じっくりと聞き進められるよう蛇はくるりと胴をまいて頭を床につけた。

「 一葉かずはという名はね、どこにでもいっていい、そういう意味が込められているんだ。」
 蛇は驚きを隠せずまたスックと頭をあげた。
「ああ、勘違いしないでくれよ。いたく僕を可愛がってくれてね。夜は怖くてよく寝所に入れてもらったり、」そういって一葉は思い出を語り始めた。

 まだ幼き日のこと、雨風が吹きすさび隠れるように法衣に滑り込んだその時、衣越しにもはっきりと分かる稲光りがして大きな雷鳴が轟いた。夜が明けるまで、いやこの先ずっと続くかと怖くなって、尋ねてみた。

「これは道真公の祟りなの」

祖父宇多法王はぐっと息をのんだ。少し背すじを伸ばしひとつ大きく息をすると僕のことを正面に抱きかかえるようにして膝に座らせこう尋ねた。

「一葉は道真公が怖い人だとおもうのかい」

だって、みんながいっているよ、という僕に、私の知る道真公について話しをするよそれでどう感じるかは一葉の自由だといって、朗々と声をだした。

何 人 寒 気 早いづれのひとにか かんきはやき 
寒 早 〇 〇 人 かんははやし ○○のひとに

いづれのひとにか かんき はやき
かんははやし なにがしの ひとに
もう一度、今度は問いかけるように諳んじた
どんな人が冬の凍えるような寒さを一番に感じるかい、寒さに凍えるのが早い人は・・・こんな人だよ、そんな問いから始まる漢詩というものだ。

「一葉はどんな人が寒さに凍えるのが早いと思うのだ」
考えながら真似をして諳んじる。
「いづれのひとにか かんきはやき かんははやし、かしわでのひと!」
どうしてそう思うと聞かれて、
「あさ、早くから水をくむでしょ、それにおさらを洗うのも手がこごえるといつもおしゃべりしているよ」と答えたら、そうか、よく見ているなと目を細めて褒めてくれる、そして一葉自身が寒さに震えるのはどんなときだ、とさらに聞く。
「冬の寒い日にいたずらをして叱られたときうすぐらい納戸に入れられて
ごはんも抜きで小さくうずくまってもちっとも温まらなかったよ。」そういうと、そうだなあ、そのとおりだと道真公について話してくれた。
 
 先ほどのは道真公が讃岐で読んだ漢詩である。

人身貧頻 じんしん ひんひん

 人の心身が貧しくてそれが続くこと、それを韻として踏んで凍えるような厳しさを詩に諳んじた。
 土地を捨てゆく者、土地を捨ててきた者は、仕事も居場所もなくて瀕。
身寄りのない孤児、子を身寄りのない孤児にするかと心痛める病の片親
寄るものがなくただ涙すること頻。
 薬草を取る者に馬の世話がかり大切な仕事にも関わらず実入りが少なく貧
船乗り 魚釣り 塩職人 老いた木こり いろんな人を心配して稲作を進めたり救護の場所を紹介したりしたんだよ。真に慈悲深く、国の在り方を常に考え言葉にする。またその言葉が軽やかでな。諳んじれば情景が浮かんでそこに真実映しとっているようだった。
 そう祖父宇多法王は道真公を評した。

 確かにそのときまでの嵐のようなどよめきはすっかり心の中を過ぎ去り、さっき教えてもらった韻をふんだ漢詩で頭の中はいっぱいだった。

「人としても優れ、詩才文才実務どれをとっても尊敬できる恩方であった。
しかし、世のため人のためになることであっても、この宮中では阻まれ妬まれ身動きが取れなくなっていく。それが悔しいのだよ。私は法曹の世界に隠れたが、一葉かずはよ、おまえは風にのってどこへでもいくがいい。」
 幼子にわかるはずもない、そう分かってはいても、幼子ぐらいにしか、この心情を語ることは許されぬ」
 そうして小さい一葉の頬をそっとなでた。



 小さき一葉が法王をぞき込んで話しかける。ねえあれを鳴らしてもいい。
そばにあった木枠をちらりとみる。膝に座った一葉のちょうど目の高さぐらいだ。木枠に円盤状の小さな鉦|《かね》がかけてある。空洞になっており中央はさらに円状に隆起している。打ち具で叩いてみるとチーンと短く音がなる。短く高く響く鉦の音は韻を刻むにちょうどいい。

 一葉はすぐに漢詩のリズムと謎かけに夢中になった。

 普段は法王が唱える念仏に合わせて鉦を打つのが僕の仕事だとでも思っていたようだが自分でしたいことを見つけだした。


一葉はその鉦(かね)が好きかと問われてうん、と答えニコッと笑った。

いづれのひとにか かんき はやき チーン

 声に出して諳んじては鉦をならす。 
「漢詩も好きか」 「うん、大好き!」
 さらに大きくニッコリ笑った。祖父宇多法王もそれをみて微笑む。
ではしっかり学べばその鉦を一葉にあげよう。

 一葉は祖母にあったことがない。母も一葉を生んですぐに亡くなったときいた。一葉が生まれたときもこんな雷鳴轟く夜だった。ほどなくして道真公の逝去の報が届いた。周りの一葉に対する奇異な目に気づいていた。学び場に出入りすることを許されたあとはその利発さより一層、噂された。

 法王がまだ臣籍にいて国の最高教育機関である大学寮で学び始めたとき文章博士として弁をとっていたのが道真公であった。自宅で開設している私塾、菅家廊下にも教えを請いに行くほど心酔していた。
天皇になって早々に阿衡の紛議にかけられ窮地の折も讃岐から駆け付け取りなしてくれた。妻の衍子をはじめ道真に連なるものを後宮に迎え入れ、姻戚関係を結び右大臣として支えを請うた。
 そんな道真公にたいする並々ならぬ思いも朝廷ではいともたやすく無下にされる。出自が知れたら一葉は、そう思い、祖父たちは一葉の母の出自は伝えずにきた。今の世では勉学や人物としていかに優れようともまつりごとで報われることがない。かといってこの仏への修養が報われるのか。未だ確信はない、そんな思いを打ち消すように法王は読経を続けた。

 一葉は、直接、母の出自をきいたことはない。だがきっと、自分は道真公の血を引いているに違いない、とそう思って生きてきた。

3.祖父(医師)の話


(かの者の血を引く)もう一人の祖父は大学寮では典薬寮、すなわち薬学を専攻し、そのあと。宮中に医術を施しに参内しつつも相変わらず裏通りの医師として衆生とともに過ごしていた。
 父は、母との縁により境内に住まいを設け薬房も任されるようになった。色々な薬草の芳香が入り混じる。一葉は薬房に入るのもその香りを嗅ぐのも
嫌いではなかった。生来の好奇心も手伝って色や形、匂いで薬の効能やその作り方を理解するのにそう時間はかからなかった。
 薬草が少なくなったら祖父のところに訪ねていって一緒に川辺に詰みにいくのが楽しみだった。風がそよぎ、水面が揺らめきキラキラと光る。母のいない 寂しさも優しく包み込んでくれるような気がした。
 宮中とは違って市井のものは身なりが貧しい。貧しさゆえの苦しみを多かったがあけすけにしゃべるコトバは実がこもっている。ニコニコと、なんのはなしですか、と聞き上手な好々爺の存在大きかったけどね。

 「そうそう珍しい薬酒もあったんだよ。」
とこちらを向いてニヤリとする。へびをみるとその話をするのだな。ヘビの酒か、呑むことはあっても呑まれることなど想像もできない。人間の方もそうだ。ヘビが入ったものを飲もうだなんてよっぽと酒にはふしぎな力があるんだな。
 そんな様子をみて、さらにからかう。酒に興味がでてきたかい。昔から神への供物に欠かせない。特別な法要の時には出るかもしれないね。

 ヘビは思った。そうだ、天帝は神として畏怖をもって崇められていた。
しかし、仏とか法会とかいったいなんのことだ。それに一葉が一心に彫っているあの白木心に決めたやりたいことと関係してるのであろうか。

「さあ、今宵はここまでにしておこう。」

 一葉は固い板場に綿が痩せた薄い掛物を二枚広げ背を丸くして入り込んだ。一葉の背中に向かって久しぶりにかの者と交わしたコトバを呟いた。

オ ヤ ス ミ

4.蛇の名


次の日の朝

ザッザッ ザッザッ 
社の前を掃き清める音がして目を覚ます。玉砂利を敷き詰めているようだ。小鳥の囀り虫の声。サラサラと水の音もする。外に出ようと戸口に向かう。

「ちょっと待って!まだ出ちゃだめだ!」
 一葉は大きくはっきりと制止するように声を出した。外の男がほうきを持つ手をとめてお目覚めですか、とひょいとのぞいた。

「ああ達吉、すまないが桶に水を汲んできておくれ。」
そういって運ばれてきた桶の中にヘビはスルッと身を滑り込ませた。逃げ出すとでも思っているのか。いぶかしく様子を伺う。するとまた、ジャリジャリ ジャリジャリッと足早に誰かが来る音がする。

「おおーい、一葉できたぞ!」
 戸口に烏帽子がひっかからないよう大きな男が頭を下げて入ってくる。
貴族のような身なりだ。男が頭を上げて顔を見て驚いた。
どうしてここにいるのだ、男はこちらをみてニヤリと笑った。人間の姿に身をやつしているが間違いない、天帝の使徒ではないか。
 一葉はそんなヘビの様子に目もくれず
道風みちかぜ!出来たのか!」と今度は弾んだ声を出した。

「ああ、見てくれ!」
道風が長筒の中から大きな紙を取り出す。どうだ、と自信げに肩ほどから両手で紙を下に垂らした。それは墨汁で描かれた天に昇るあの日の我の姿であった。身をくねらせながらも口を大きく上にあけ、雲間を突き抜け月に届くかのごとく立ち昇る。勢いまでも一枚の絵にそっくり映しこんだようだ。

「おおおおおーー!すごいよこれは!」

 一葉は両手を上げ体まで跳ねるようにしてその絵を褒めた。
キラキラと輝くように美しいというのではないが、墨の濃淡、流れるような滑らかな線、ヘビがみてもそれは見事としかいいようがない。
 しかしだ。こんな絵をしたためてやはり我を見世物にでもするつもりか。
それに道風なんて人間のなりをしているがどう見てもこやつは天帝の使徒。

 一葉はやっとヘビの方に意識を向けた。説明と紹介が必要だね。
そういって、わけを話し始めた。
「宮中にいる間、書物や大学寮での講義、僧侶の講話まで一通りのことは見聞きし学んだ。ここにいる小野道風はその指南役。神職もいる家系で見てのとおり書画に優れている。色々相談に乗ってもらう頼れる存在」
持ち上げられて、オホンと軽く道風が咳をする。

 そんな道風を横目に見て、一葉は続けた。
「そのもっぱらの相談の種というのは、唐から色々新しい文化や知識が入ってきただろう。漢詩や薬学をはじめいろいろな術がもたらされこの国の文化レベルがぐっと上がったのだけどそれで人々の暮らしが良くなったかというとそうでもないんだ。得体のしれない病に襲われたりということが頻頻と起こって、それがどうやら陰陽を妖術として使っている者たちの仕業でね。
おそらく、道真公の祟りというのもそのせいに違いない。」
「陰陽師は自分で手を下さずにヘビや他の不思議な力を持った生けるものを使うんだ。名づけられてしまうと陰陽師が死んだ後もずっと縛られる。式神と呼んでいるらしいがとても神の行いとは思えないんだよ。」

「あの日の君は、その者たちにとってなんとしても手に入れたい存在だ。
本当にあの夜君を見つけ出せてよかった。この社には道風が結界を張ってくれていたからなんとか見つからずに済んだようだ。」

大きく、息を吸って一葉がいった。

あの夜の君を写し取ったこの姿絵に これより名づけを行う

「君自身ではないから、君を縛ることにはならない。ただ君の変化した姿で あるから、君自身の護守にもなるだろうよ。」

「いいかい、道風」
「ああ、そちらもちゃんと書いてきた。」
そういってもう1枚、紙を広げた。そこには、龍という文字が力強く書かれていた。

5.神鹿の杖


龍 りゅう

それがこの姿絵の中の我の名前か

「水辺に訪れた者たちが不思議に気分が軽くなるという噂が聞こえてきた。
こうみえて道風はいまや朝廷の神護院のホープだからね。上から魑魅魍魎の類なら直ちに成敗と命が下ったときいて、これはあの父から伝えきいた人の『重い』を汲み取るヘビに違いない、そういって同行させてもらった。」

あの夜の君の姿
その身をよじりながらも
隆々と月に向かって昇りゆく


 これ以上ない書きコトバだと思わないかい

 絵もそうだが、コトバもそうだ。映し取る技を編み出すのが人間というのは上手であるな。しかし、この絵の方はもう一度絵をまじまじとみる。

我には手はないぞ、それにこの角はなんだ。

一葉と道風は上の方を見てヘビから目線をそらす。
「まぁそれは、人間は自分より優れたものでないと認めようとはしないから
創作さ、強そうな手だろう。」
クスクスッ と一葉が笑い、ヘビの声なぞ聞こえませんというふりをした道風が肩を震わせ笑いをこらえている。

腕はまあいい、なんだこの角は

「そうそう一葉かずは
 白々しく咳をして、道風はわきに置いていた長い包みをほどいて見せた。
「これは神護院の3代目神鹿しんろくの雄角だ。鹿は役目を終えた角を自身で生え変わらせる。それゆえ聖なる生きものとして特別に守護される生きものだ。」
 実際に上帝からの信任もあつく聖獣に違いなかった。その雄角の中をくり抜いてある。立てれば一葉の胸のあたりまである立派な角だ。生え際の太い方がパカッと蓋になっていた。
「蛇が入れるぐらいの立派な角であろう」
また道風はこちらをみて口の端を持ち上げる。

「うん、いいかもしれない」一葉が答える。

京で少し用事を済ませたら東へ旅に出たい
「君に同行してもらいたいのだが、日照りには弱いだろう。これなら杖にもなるし巡行装束にぴったりだ。」

「それに神鹿の杖だ、旅の安全を守ってくれるさ。」道風が加えていった。

6.井戸


旅 とはなんだ

”京で少し用事を済ませたら東の方へ旅に出たいのだ”
一葉のコトバを反芻する。京の町、そうだ かの者と過ごしたあの裏通り
今はどんな様子なのだ。
「見に行こう、いや見てほしい」一葉は真剣な顔でヘビに向かっていった。その時、道風もあわてた様に声を出した。
「おおっと もう参内の時間だ。首尾よく行きそうか また教えてくれ。」

 また窮屈そうに身をかがめて戸口を出て、ジャリジャリッと駆け出すの音あと馬のいななきがして去っていった。一葉は、先ほどの龍の絵と楷書を大切にしまったあと木棚より違う巻紙を出して広げた。

「京で済ませておきたい用事とはこれなんだ。」
それは実際に歩きながら書いたような地図であった。近年、少雨と日照りにより干ばつがひどく、疫病も流行ったのだが薬を飲む水にもことを欠く始末
行き倒れるものも多く、川べりに打ち捨てられ、川の水も不浄になる。
 以前はきれいな川で皆が喜んで遊んでいたのにすっかり野辺として忌み嫌われ衆生は瀕するばかりなのだ。父も祖父も懸命に治療にあたったが疲れと疫病にかかってしまって同時期にこの世を去ってしまった。

なんとかしてきれいな水を整備したい

 そんなことになっていたのか、と驚いた。一葉のこの苦労したなりはそのせいであったのか。我がいつも地上で居場所としているところは木々に覆われて土壌にも水をたっぷり含んでいる。地下水脈にも通じているのだ。

一葉の広げた地図を見る限りでは木々の生い茂った場所は少なそうだ。先ほど達吉が汲んできた水はいったいどこからそう思ったところに一葉が声をかけた。ちょっと裏にきてごらん。ついていくと社の裏の木々のまた奥に四角く石が積み重ねてられていた。
縁には縄がつけられた木桶があり、中は空洞になっており薄暗そうだ。近づいてみるとヒンヤリと澄んだ空気が漂ってくる。なるほど地下水か。 

 そこではたと気が付いた。この仕組みを利用して道風も天上との行き来をしているのだな。ヘビは合点がいったという顔をした。

ほらっ、と一葉は汲み上げた水を両手ですくって蛇にかけた。
弧を描くようにキラキラと水が空を舞う。痩せてはいるがニコッと笑うと二十歳の若者らしく笑顔がまぶしい。

水は恵みだ

 地上と天上を行き来する人間から見たら特別な存在であるヘビも、水がなければ生きてはいけない。それは人であってもヘビであっても同じこと。雨を降らすなんてことはヘビであってもましてや天上の上帝であってもできぬこと。木々があって大地があってその均衡が崩れたときに気象が乱れる。

「君に会えて良かったというのは、あのコトバによる浄化だけではないよ
伝え聞いた君とこうして過ごしてみるのが夢だった」

「それとこれはお願いだ。京に、衆生が暮らす場所になるべくたくさんの井戸を作りたい。自然の均衡の内で地下水脈のある場所を教えてほしい。」

 蛇はすこし間をおいた。地表に接していれば水脈は感じることができる。だが砂利道を腹をつけて進むとなるとあっという間に涸びてしまう。
さきほどの道風の口の端をあげた笑みの意味が分かった。
それも天の意思ということか。いいだろう。まずは神鹿の杖に入る練習をしなくては。その前にもう少し水浴びをしてからな。
蛇はそう一葉に向かって投げかけた。


 冷たい水は気持ち良い。一葉も手ぬぐいを濡らしてきれいに身を清める。社に入り今度は膳の用意をする。朝と夕だけの質素な食事だ。
 御仏の御蔭いただきます、一葉の掛け声に達吉も一緒に合掌する。わずかばかりのあわやひえ、裏で取れた草を混ぜてかゆにしたものを箸で食べる。   丁寧な所作だ。望めば先程の道風のようにもなれたであろうに出自のせいか それとも自ら選んだ道か。膳を下げて、一葉はさあ、とヘビに声をかけた。
神鹿の杖の居心地は思ったより悪くない。
外の様子が伺えるよう目の来る当たりに覗き穴がしつらえてあった。

 膝より少し長い質素な白衣に地図と筆具をいれた頭陀袋を肩からかける。
頭には笠 足には草履 どう見ても立派な御角とは不釣り合いだが、きりっと引き締まった口元と穏やかで澄んだ瞳からは気品と風格が漂っていた。

 社は町のはずれにあった。以前のかの者や一葉の祖父が住んでいた場所は
街並みは自体はあまり変わりがなかったが貧しい身なりの成人が目に付く。
寒さだけでなく暑気も堪える、今年も暑くなりそうだ 急がなければ。
一葉は杖の先を少しだけ地表にするようにして行脚した。

 水脈だ。蛇はそう感じて杖の蓋をコンとあごの先で押し上げ合図する。
 一葉はそれを正確に地図に落とし込みその日のうちに達吉に屋敷にもっていくよう言付ける。そうこうして、都を隈なく行脚するうちにもすでに合図した場所には次々と人足達が集まり井戸づくりを始めるのだった。
 達吉はいったいどこの御屋敷にいっているのだろう。首尾よくいきそうか 教えてくれ といっていたので道風であろう、ヘビはそう思った。

7.旅立ちの前に


 夏はすぐそこであった。すべてではないが、早くに着工したものはもう井戸ができあがっている。こどもに背中を緒ぶった母親、老親の世話をする中年男、下の兄妹の面倒を見つつ一緒にはしゃぎぐ子供たち。

 近くに水場ができて皆が喜び礼をいう。
「力を合わせて掘ってくれたおかげだよ。」一葉はそう言ってはにかんだ。好かれているのだな、と蛇もうれしくなる。一葉との毎日でかの者を思い出して寂しくなることも少なくなった。

「おおーーーい、出来たなあ」
公家を乗せた馬が2頭、井戸の手前で止まる。一人は、道風。手網を握りながらもう1人が馬に水を上げてくれ、と達吉に声をかけた。達吉は深々と頭を下げて馬を引き水を飲まにいく。

「順調だな、一葉。これで出発前の心残りもなくなったか」
そう問いかけた男は、藤原実頼ふじわらのさねよりである。
藤原家から宇多天皇に嫁いだ女御の子息で一葉のいとこだ。一葉より8つ年上の28歳。それほど長身ではないが顔も体もバランスが良い。
井戸の周りの女子連中の視線がみな実頼に向けられ実頼と一つしか変わらない道風は少し不満げだ。
「さすが藤原家のお坊ちゃんですな」と道風はからかった。
「よせ、藤原家といえど様々だ。天下の権勢から外れたしがない身分よ。」
そうはいうものの、実頼自身にもそれなりの財力があり、公にはせず、この井戸づくりもひそかに資金を援助くれている。
(一葉の旅にも持たせてやれるし、道風の小野の一族は各地で任を務めているから頼る先もあるだろう)そう心のなかで思っていた。

「そうだなぁ、明日には立とうと思う。」
そうか、では今宵は出立前のお祝いだ。馳走は社に運ばせる。
夕刻また会おう。そう言って実頼と道風はまた馬にのって駆けて行った。
「実頼の使いが来る前に社に戻って準備をしておくれ。」
一葉は達吉にそう頼み、神鹿の杖をもって歩き始めた。向かった先は、山間にある例の水辺であった。かの者もよく座っていた大きく地表に隆起した木の根っこに腰をかける。

一葉は杖を横にして
「さあ出てきていいよ。」とヘビに声をかけた。木の葉がさわさわそよぐ、へびは水辺に近づき湿った土の感触を楽しんでから水に入った。
キラキラと光る水面を眺めてから一葉の方を向く。
 井戸の目途がついたからか、少し脱力しているようだ。ふっとのど元に黒いものを感じる。ヘビの心配に気づいたのか、一葉は語り始めた。
「これからの旅は、仏に通じる道への旅、一葉 という名を捨てるというのもそのためだ。しかし、捨てきれない思いと本当にそれで衆生が救えるのか、
仏の道とはそんな力があるのか、信じきれない思いもあるのだ。君にこの”おもい”を取り出してもらってもいいだろうか。」
 ヘビは達吉たちのしぐさを学んで頭をコクリコクリと2度さげた。

ただし、コトバ はなんのはなしですかではない
南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)だ


ナ ム  ア ミ  ダ  ブ ツ

ナ ム  ア ミ  ダ  ブ ツ

 頭のなかでイメージする。もともと ナンノハナシデスカ だって上手くは声にだせたりしていない。用意はいいよ、というようにもう一度コクッと頭を下げたあと一葉をまっすぐに見つめた。

南無阿弥陀仏 (ナムアミダブツ)

一葉が手を合わせ南無阿弥陀仏と小さく声に出した

ナ ム  ア ミ  ダ  ブ ツ

ヘビがそれに呼応する。すると、ポンッと一葉から「おもい」が飛び込んできた。ほんのりあったかく、口から出した玉は、水色がかったきれいな透き通った玉だった。


我にとっては”呑んで””出す”ただ、それだけのこと

 あとのきれいな玉を眺めて晴れやかな気持ちになることはあったが、一葉のいう”浄化”という行いはヘビとって、取るに足りないことだった。それにしても一葉の”おもい”から出た玉はキレイだ。ヘビはきらきら光るその透明な玉をうっとり眺めた。

 一葉はというと、もう2回、合唱して呟いた。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

ああーーー、すっきりした。そのあとは堰を切ったように語りだした。

「なんか もうずっとうじうじ考えていたんだ。母の出自をしらなくて。
もしかして道真公の一族で。もしかしたら出産のときには死んでなくて。
道真公の夫人たちの都追放で一緒に東国に追い出されたんじゃないかって。
僕だけぬくぬくと宮中で過ごし、勉学に励んでもまつりごとには加われない
励んだところで嫉妬や何かで失脚するのは目に見えている。」

「医師として勤めることも考えたよ。でも宮中でも治せない病の果てにすがるのは仏僧で豪奢な寄進をうける。市井においては、薬を飲む水さえ事欠き栄養をつけようにも食べるものにもありつけないのになんだかなぁって。」

 いつもの一葉らしくなく、どんどんとコトバがついて出てくる。本当の気持ちをずっと押し殺していたのだろう。ひとしきり語ったあと真剣な顔になって言葉を続けた。

「そんなときに思い出すのは幼き日にきいた(道真公の)寒中十首だ。
貧しき人を貧しきままに、どうしてそうなるのか背景にまで思いをはせて映し取る、ただの詩なのに、その温かい眼差しを思い起こして心が熱くなる。貧しき人に目を向けて救いたい、そのときから仏法に目を向け始めた。」

 「16になる年に、父と祖父からあの光る玉を渡された。君の なんのはなしですかという受け取りと浄化ののふしぎな話とともに。仏教では南無阿弥陀仏と唱えると仏様が救ってくれるというんだ。それが”なんのはなしですか”のコトバで君がおもい”を取り出すことに似てるなんて、なんとなくだけど不思議とそんなことが浮かんでね。僕は コトバの力でみんなの”おもい”を映し取し心を癒すすべをひろめたい。
 
そのすべが仏の道で得られるのならその道を進んでいきたい。

『なんのはなしですか』と『なむ あみ だぶつ』
 なんだか似ているとおもわないかい。共通するのならきっと、それは信じるに足ることだ。それをやってみたい。見守っていてくれ。
 それにね、やっぱり、僕の中には、母への思慕、ひいては菅原一族に対する断ち切れない思いがある。この旅でそんな己に向き合いたい、それは東国に旅することだ。法王もこの行脚には喜んで資金を出してくれるかもしれないしね。区切りがついたら衆生のために全力を尽くすさ。」

たくましいものだ。みな『おもい』をだしたものはたくましい。
出したはずなのに、そのままそっくり『受け入れる』やるだけやるさ、だめならさっぱりあきらめるそんな軽さを持っている。

旅か、どんなところに行くのだろう。少しばかり楽しみになってきた。

ただ、仏の道は神護役の道風(みちかぜ)はどういうだろう。
上帝のことがふと浮かんで蛇は少し寒気がした。


 社に戻るともう道風と実頼は社にきていた。昼間は汗ばむぐらいの陽気だが日が落ちると涼しかった。風にあたりながら食そうか。社は小さいものであったがそれでも通りからは十分に距離をとってぐるっと木々も植えてあった。その辺は、天上の使徒でもあり地上でも神護院に属する道風の領域だ。    色々な意味でしっかり守りが固められ、安心してしゃべることのできる場所であった。
 一葉たちが外の腰掛けで話をはじめた後、ヘビはこそっと社の中に入ってすみの方で丸くなった。ときおり聞こえてくる笑い声、ガヤガヤとした
雰囲気が心地よかった。
「いやー、少し飲みすぎた。少し休んでくるよ。」
そう声がして道風が社の中に入ってきた。

 道風は天帝の使徒でありヘビと話が通ずる。酒か、そう投げかけると
「ああ、酒はいいぞ。軽く陽気な気分になる。昔から神への貢ぎ物に入っているしな。天帝も気分が良くなって時折ふるまってくれるのさ。」
「ほらお前さんにも、」
 そう言って白い盃をヘビに差し出した。あの瓶に入った薬酒を思い出すが目の前の水のように澄んだ酒はふんわりといいかおりが漂ってきた。
「お前さんもお龍様だもんな、神の聖獣といっても過言ではない。一葉をしっかり守ってやれよ。」
 ヘビはわかってる、と言わんばかりに舌をだし、そのついでにといった感じでチロチロッ、と酒を舐めた。なんとも言えないふくよかさ、酒とは美味しいものだな。ヘビはペコリと頭を下げた。
 それににしても、一葉のいう仏とやらの道。この国は神が納めていたのではないのか、
道風がいう。
「まぁそうだったんだが、ここ何十年かの間に大陸から仏教がやってきて。
まあ、その教えも結局意味するところは天上世界と人間の世のことわりだろうっていうので容認する方向になったんだよ。ただもともとの神も大事にしてくれよ、と今は神も仏も一緒に奉る神仏習合の時代ってわけ。」

「一葉が帰ってきたらこの社にも仏をおいてついでにあの龍の絵も奉ってやろう。なにせ、いい出来栄えだからな、」
カッカッカッと大きな口をあけて笑った。

第3章


1.門出


「ちゃんと持ったか」
旅立ちの朝、そのまま社で一夜を過ごした道風が心配そうに声をかける。

 これから向かう先は尾張の国分寺。もちろん、国の鎮護のための神護院の管轄社寺だ。尾張は畿内と東国を結ぶ重要な要所である。そこの国府の任を道風の父が担っているときに、道風は生まれ12になるまでそこで過ごした。
 偉い仏僧のもとで修業したわけではない一葉だがそこなら馴染みの任官や僧侶に口添えできる。一葉には駅路と要所を記した地図と尾張国府と国分寺僧侶にあてた書を持たせていた。

「実頼と私あてに手紙も忘れずにな」と念を押す。
 生活のための荷はできるだけ抑えたが道風の書と文筆具の他に大事なものがあった。綿布で丁寧にくるんだ彫りかけの白木、祖父、法王から譲り受けたかね撞木しょうもく。背負い紐をつけた竹篭に入れた荷をもう一度確かめ、よし、とその肩にかけた。

 細い肩には、ずしり、と重い。しかし、そうとは感じないぐらい足取りは軽かった。行ってくる、いうより早くはじめの一歩を踏み出していた。
もちろん、手には神鹿の杖を持って。
 水脈を探すときは杖に入っていたヘビも、旅の間は背中の篭に入ってあたりを見回す。道中、人里にある田畑は荒れていたが山間は緑豊かでいくら見ても見飽きることがなかった。

 五幾七道、地方に通ずる道に駅場が整備され国府に行くにはその道沿いを行くのが近道だ。一葉は、まず先にきちんと僧位を得なければ、と景色を楽しむ余裕などなく急ぎ足で、山城、近江を抜け尾張へと進んでいった。
 尾張国分寺は大きくヘビのように蛇行する川の近く小高い丘になった場所に立っていた。一葉の目の前にある国分寺はもとは願興寺という飛鳥の流れを汲む寺である。以前の国分寺の失火により国分寺となったのだが宮中にいた一葉も遠目に見ても息を飲むほどの荘厳な造りであった。

 一旦、国府に逗留したあと取り次ぎを待ちいよいよ入門を許された。

ー延長元年4月25日ー
小野道風、藤原実頼にあてた手紙

晴れて得度を受ける
法名は、一水  いっすい 
自分で法名を申し出ることは前例がないことだけど
道風の命名願いの一筆により受理頂いた
さすが道風の故郷、書才、画才の栄達が轟いている
道真公の右大臣復位の日に出家できて嬉しい
剃髪して法衣も頂いた
これより東国巡行に向かう
不安はない、阿弥陀仏が一緒だ

文をしたためて感慨に浸る。一水いっすいは自分で考えた僧名だ。

海ならず たたえる水の底までに
きよき心は月ぞてらさむ

菅原道真  大鏡 古今和歌集
 

海のようにどんなに深い水底であっても
水のように清く澄んだ心でいれば月が照らしてくれる

 左遷で下る道すがら、同情の念をこらえきれない播磨の世話役をなだめるかのように道真公はそう和歌を詠んだ。漢詩に通じ、詩情というものを和歌にして浸透させた。難しいものを難しいままにするのではなく、人々に親しみ受け入れられるよう心を砕いた人物でもある。

 修行を終えて今改めて思う。清く澄んだ水でありたい、月のように光る玉のような一滴の水。くうにありて、清濁水中にある衆十を水鏡のように映し出し天の光を届けたい。
 いや、届けるのではない、届いているのだということを伝えていくのだ。

月を見上げるように、南無阿弥陀仏と唱えると
阿弥陀如来の光を受けた月のような観音菩薩が優しく人々を映しだす。
そして映し出された姿は浄土に届く。

 修行を終えてそのように感じるようになっていた。
ヘビがおもいを出した後のまるい光る玉の存在がそれに確信を与えていた。

次は東国だ、新たに一水いっすいの旅が始まった。

2.東国


尾張を出て三河 遠江 駿河 の後 甲斐にも足を延ばす。笠と法衣を身に纏い胸からみぞおちにかけて下げた鉦を撞木で打ち鳴らす。
 阿弥陀仏の称名を唱えながらの遊行である。
 街道の大きな国府は通ったに違いない。菅原に類するものがいないか気にかけながらもその地の風土や人の営みを直に感じる。

ヘビと出会う前は播磨や阿波 讃岐 土佐と修養のために行脚していた。

 都から離れれば離れるほど未開であろうと思っていたが都とも遜色ないぐらいの荘厳な寺社や金が張り巡らされた仏にも驚きもした。都では貴い身分というものとそれ以外の垣根が高く庶民が仏の像を見る機会などない。
 衆生のための仏像を作る、その衆生をあまねく映す仏の顔とはいったい、自らが彫る仏の表情に答えがでないまま旅は続いていく。

 延長4年は機縁に恵まれた年であった。

常陸の国は男でも女でも馬に乗り闊達だ
それに情が深く下のものを交えて酒を飲む
平将門はその名のとおり堂々としたものだが
同じ生まれ年の縁だと游行の身ながらもう幾月かそばにいる
南無阿弥陀仏の称名に観応して市中同行するものあり

先般は常陸介として菅原景行どのが着任された
この地が大層気に入り道真公をまつる計画がある
浄土に向かって祈りたい   
         常陸に       一水

 泣いたり笑ったり怒ったり、仏門修行中、感情を声に乗せて高らかに発することは慎むべきことでありほとんど見ることがなかった。

生命を高らかに宣言する、その生宣りいのりを前にして一水はわき出ずる感情をしっかり自分の中に落としこんでいく。

 別れが近づくにつれて、一緒に行かせてくれというものが幾人も現れた。
将門は別れがたいようだったが、往け、またいつか会おう。そういって馬も与えてくれた。ありがたい。

 いよいよ東国の最終地、陸奥に入る。最終にして最大の地。
たくさんの郡に分かれているが、人里はというと密集しているわけではない
馬を与えてもらったことが大層助かった。平将門は自分のことを道真公の生まれ変わりと信じて、それを高らかに宣言していた。
常陸以降、同行してくれている者たちも、道真公の夫人の行方をたどることは将門への恩義を返すこと、そういって聞いた話を全て伝えてくれた。

ついに平泉に入った
平安京につぐ第二の都市、要所であるということが
よく分かる、自然の景勝なるものはそれ以上だ
両岸にそそり立つ岸壁は下にいくほど丸みを帯びて
水の勢いを止めることをしない
遠目には木々の緑と空の青を混ぜたような深い翠を
しているが、近くで見ると透明の水しぶきが光り
絶えることなく流れ来る
道風のように詩才がないのが悔やまれる
渓谷の上流よりまだ東にいった小高い丘に
菅原姓を名乗るものがいるという
ついにここまできた

 ここまで書いて筆が止まる。もし違っていたら、もしそうであっても、その時の自分は、思慕する気持ちか憐憫の情を抱くのか。それは誰に向けた憐憫なのか。目的を果たしたら水のような清らかな心の境地が訪れるのか。
とりあえずここまでやってこれた。明日もまた一歩踏みしめるだけだ。

 ヘビはそんな一水に付き従う。
 慰めも励ましもしない。自然も心も移ろいがあっていい、それをみていることが好きだ。明日も一緒にいられる。

オ ヤ ス ミ

そう小さくつぶやき目をとじた。

3.吉祥女


 朝の澄んだ空気がヒンヤリと頬と射す。一水|《いっすい》は神鹿の杖を突きながら谷の分岐の手前で東に位置する丘に向かって足を進める。ぽつんとひとつ民家がありその前で薪をわる一人の男がいた。

「はるか西の京の都より浄土へ至る阿弥陀を唱え、巡行していたらここに至りました。どこにも属さぬ根なしの游行僧です。阿弥陀仏を唱えさせてはいただけませんか。」
 男は、そういう一水の顔をぱっと顔を上げて中に案内してくれた。
「これからあさげをお供えするところです。さあ、どうぞ、ご一緒に。」

 よく掃き清められてはいるが、屋敷というには小さい菅原を名乗るものがいると聞いてやってきたのだが、間違いであろうか。有難く施しを受け、主人について尋ねてみる。

 名を菅原山城すがわらのやましろといった。
「ここの主は紀長谷雄きのはせおの妻であり3人のこどもを連れて京より移り住みました。私は、その従者です。お子様たちはそれぞれ別に住まいを持たれましたが奥様はここで過ごし、今この上の丘に眠ります。」
「奥様は仏様を信仰しておりました。どうぞご説法をお願いいたします。」
とそういって深々と頭を下げた。

 一水は息を飲んだ。『紀長谷雄』は道真公の門人であり文章博士である。
典薬頭も務め上げ医薬に詳しく一説には『竹取物語』の著者との話もある。
 大宰府で道真公の今際に立ち会ったほどの仲であると聞く。間違いはない、ここで眠る方は道真公の奥方様だ。
(そしてそれは私が探していた母に連なる方でもあるかもしれない)

 湧き上がる興奮を気取られないように 少し間をおいていった。

「これも何かのご縁に違いありません。ぜひ墓所へとご案内下さい。
阿弥陀仏の御真言に加え貴人への言葉を手向けとうございます。何か、逸話や生前に大事にされておりましたものはありましょうか。」

 その問いかけにそうだ、と大切に棚に飾っている一冊の書を取ってくる。
「私は、文字は読めません。でも奥方様は朝な夕なと手に取って大切に読み
撫でるようにまた棚に戻した後は墓所である丘の上に立たれておりました。ぜひその中から読んで差し上げては下さいませんか。」

 書の表には『菅家後集』と書いてある。手にすると読みこまれたであろう頁がはらりと開く。

『代月答』
蓂發桂香半且圓
三千世界一周天
天廻玄鑑雲将霽
唯是西行不左遷

蓂發きめいひらきかつら かぐはしくして
なかば まどかならむとす
三千世界さむぜんせかい一周ひとめぐりするそら
てん げんかむめぐらして
雲 まされむとす
ただ これ 西に行くなり 左遷させんならじ

新編日本古典文学全集出典 参

月に問いかける人よ
私の世界では暦草が花開き、月の中の桂樹が香る。月はようやく半円だ。
月に問いかける人よ
私は三千大千世界の天を一巡りしているのだ。天鏡は私をおおっていた雲をまさに取り払わんとする。
月に問いかける人よ
今この地にいるのは左遷ではない。三千大世界において今は西に行く、そう定まっていただけなのだ。

 ただ、文章の天才といわれ知識が豊富なだけの人物ではない。漢詩においてもその風景、詩情、その仏教的思想の美を寸分たがわず読取り、また自身でも詠むことができたのだ。妻もまた、これを詠み我が心情を汲み取ってくれるはず。そして詩を送る。その深きつながりに胸を突き動かされた。

 夫人の眠る小高い丘で、深々と礼をし掌を合わせ経と詩を読誦した。
自分の声が胸の内でも大きく響き熱を帯びる。私はここに来ましたよ、そういう想いも入っていた。もう一度深々と礼をしたあと顔をあげる。
 小さな五輪塔が両脇にふたつ、真ん中に墓石のみ。
 「もとは身分のある高貴な方であったとお見受けするが、どこぞの寺院に寄せることは考えなされませんでしたか。」

「奥方様は私が死んだのちは吉祥女としてこの丘この場所に埋葬を望まれました。この場所からあの人を見ていたいのです。囲いなどしないでくださいね。くれぐれも頼みましたよ、との遺言でありました。」
そう山城は涙ぐんで答えた。
 どこかを見ていたのか。一水は墓の横で向きを変え、丘から見下ろす。

 山城が手をかざす。
「あちらです、あの渓谷の分岐点、岩崖が丘陵尾根となっている先端に寺があるのです。日中はあちらに詣でることが奥様の常でした。」

そこに行ってみよう

「しばらくこの地に逗留予定です。どうか、こちらに参って経を上げさせていただくことお許し願いたい。」とそう山城に伝えて礼をした。

山城もまた手を合わせ深々と礼をするのであった。


4.毘沙門天


 この丘から見える先に寺がある。でもそこに何があるのだろうか。
下りの道は木々の隙間から差し込む光が苔の水滴をキラキラと照らし出す。
逸る気持ちと裏腹に足元を見ながら一歩ずつ下っていく。
 
 谷の分岐までやってくる。このような場所にも経路が整えられている。
こんな地まで朝廷とはすごいものだな、一水はそう思った。この陸奥の国は百年もたたない昔は蝦夷が住んでいた。それを遠征して平らげたのだ。
 征夷大将軍 坂上田村麻呂、生まれた御世は道真公より早いが文の菅原道真、武の坂上田村麻呂と称される。確か、清水寺も創建したはず。

 渓谷の分岐、丘陵尾根の先端部に突如として寺が現れる。名を達谷西光寺という。城内は東西に広く、西側には高く高くそそり立つ岸壁を利用した懸づくりの窟堂となっている。それも簡易なものではない。九間四面の朱色の厳かな精舎。清水寺の舞台が眼前に現れたような錯覚を興す。

 西光寺の僧に挨拶をしたあと、堂の中を案内していただいて驚く。おびただしい数の毘沙門天像、その数なんと108である。毘沙門天は四天王の一人で最強の武人であると同時に全ての事を一切聞き漏らさない知恵者という。
 祖父法王より、天才と誉れ高い道真公であっても文章試験の前は毘沙門天に祈ったそうだと教えられた。そして道真公の幼い頃は吉祥丸だったとも話してくれた。
 毘沙門天と吉祥天女は夫婦である
道真公の奥の方は、みずからを同じ吉祥と名乗り吉祥天女の伴侶である毘沙門天を西に仰ぐ。なんという繋がりだろう。

蓂發き桂 香しくして半 圓ならむとす
三千世界一周する天
天 玄 鑑を廻らして
雲 将に霽れむとす唯 是西に行くなり左遷ならじ

 ここは吉祥女と毘沙門天の約束の地であったのか。時の磁力に抗えぬ三千世界では分かたれるとすれども、涅槃では一緒であるから気には留めていない、君はそれを覚えているだろうか。この漢詩にはそんな思いも込められてはいないだろうか。
 骨などは心のまま葬ってくれと息子に託し心は妻の待つ地に飛んでくる。 東から吹き来る梅の香を頼りにして。一水の目が熱くなった。
 互いの絆を信じ、あの世に希望を感じ言葉を紡ぐ。人の心というのはなんと深くてあたたかい。そして今生の後に浄土があるということはなんと優しく幸せなことだろう。

108ある毘沙門天像の顔もよく見ると一つ一つが異なっている。
 自身の彫っている衆生のための一躯の仏像みなの表情をひとつ残らず映し取りたい。やはり作るべきは十一面観音像だ。できる、そう思った。
うしろの面は未練なぞ残さず大笑いして涅槃に旅立とうとする清々しいお顔にしよう。じっくり腰を据えてこの地で彫ろう。

 寺の一室を間借りして、一心は無心に完成に向かって彫り進めた。
 ヘビはゆらめくロウソクの明かりと一水の背中を見つめていた。


5.梅


延長8年年4月25日

達谷西光寺に身を寄せてもうすぐ1年
梅の花のかぐわしい芳香に去りがたし
山城方恒例、道真公の復位の日を祝う梅見会に
今宵招かれていってきた
菅公夫人に付き従って京より下った親族も集まり
そのうちひとりは平泉の医師に嫁いだという
菅公夫人をここまでお連れした
典薬頭も務めた かの紀長谷雄 公より
中国の医薬典『神農草本経』の副書を戴いたが
漢語は難しくて分からないと和訳を頼まれた
和コトバ(ひらがな)の普及はその後どうだ
書物も和コトバで書かれたものが必要だ
仏の教えも『なもあみたふ』と節をつけて
和讃称名するのみと昇化する
意味するところは仏とし、
その像をこちらから出向いて見せて目と耳を傾ける、
その実践のみが証明であるとの境地にいたる
昼間は仏とともに游行しつつ
書物を読み解き和コトバに記しなおすこととする
それが終われば京に帰る

 筆をおいて今宵の宴を思い出す。母かもしれない、と思い続けてきた方々を前にしてもふしぎと心乱れることはなかった。今生での縁は薄くともここまで至ったきっかけを与えてくれた。ふくよかなる人生だ。

今生での縁、浄土では丸くひとつとなる円

円と思い浮かべて、そうだ、君も大切だよ、と酒宴での酒を前に置いた。
ヘビは、うれしそうな一水をみながらチロチロッと酒をなめた。

 それにしてもこの書にある『烏梅うばい』青梅を素早く燻製にしてカラカラにした漢方薬だ。父の薬房にも置いてあった。感冒や腹下しに薬効があるが、高価で希少なものなので市井では使えない、というのでこの国では作ることができないの、と聞いてみたことがある。

「どうも中国の梅と違って酸が強く同じ作り方をしてもとても煎じて飲めるものではないのだ。もう少し柔らかくふくよかであればと思うが保存がまた
難しくてね。」と残念そうに肩をすくめた姿が思い浮かぶ。宴席でみた医師(くすし)であるというそのご仁。朗らかな笑い顔がどことなく父に似ていたからか、思いだす父も鮮やかであった。

 東国の冬は長く厳しい。食べ物を貯蔵しておくため塩漬けという手段をよく使う。ひょっとすると ひょっとするのではないか。

夏が来る前には京に戻る
実頼、塩をたくさん用意しておいてほしい

 一水は文にそう付け加えた。
 本当は菅公夫人の墓を京に遷してやれないかとそう思ってやってきた。
そのための金子(きんす)も十分に用意して。だが、それは菅公夫人と道真公、どちらにとっても意に染まぬことらしい。梅の実を買い取るといえばその代として受け取ってもらえるだろう。
 それに華やかさの裏で貴賤と厄災甚だしい京の都がいいとも限らない。京の民のことも気がかりだ。この地ですべきことをして京に戻ろう。

 一水は、房にすっくと立った11の顔をもつ観音像に向かい直った。

南無阿弥陀仏

どうぞ役目が果たせますように。ただそれだけを祈るのであった。

6.六波羅


7月、山城方の梅の木にたくさん果が実った。

 ゆすり落として落ちたその実を井戸の水で洗う。こっそり影に木桶を用意しヘビもしばし水浴びを楽しむ。冷たく澄んだ水が気持ちがいい。
どうだ、いい水脈であろうと誇らしげに頭を上げた。
 
 そこに山城の声がする。
「一水様、本当にこのような井戸まで設えて下さりありがとうございます。
これからこの梅の木も増やしていきましょう。果が成れば、毎年京まで送りましょう。」
 十分すぎるほどの金子をいただき奥方様の持っていた書物もわかりやすく直して記しコトバまで教えてくれた。この申し出は決して過ぎたものではない、山城はそう思っていた。

「有難き申し出、慎んで感謝いたします。精進なされてのお布施、浄土にわたる徳として仏さまもきっとお喜びになります。」
一水はそう深々と頭をさげた。
 汗ばむ仕事だ、それとも井戸の水が跳ねたのか、山城は手ぬぐいを大きく広げ両手で顔を覆って拭う。

「その際の願い事、ひとつ聞き入れて下さいますか。今からこの洗った梅の果、水気を拭きとりむしろに広げ天日で3日3晩乾かします。そこまでして送っていただきたい。」
 一水の申し入れに大きく頷いて、山城もまた深々と頭をさげた。梅の実が乾いてすぐ、一水は東国を出発した。ここでの日々、道中の思い出も蘇る。

 将門はどうしているだろうか、奥州から一緒に陸奥に入った者たちは、各々陸奥で游行し自分の役目を見つけていった。馬はその者たちと一緒だ。                駅場から駅場へ馬と人足をつないでもらい京へと急いで帰り着いた。  

 京では道風が出迎えてくれた。さて、私たちの社に帰ろう。そう籠の中のヘビに声をかける。しかし、着いて驚いた。社の前の大きな境内に、畳敷きの大広間を備えた道場ができていた。あの龍の絵は襖にして飾られている。

 畳の下にはすでに塩とたくさんの壺が用意されていた。
 実頼か、会って礼がいいたいが今はすまないと感謝の念を心に刻む。
 道風はというと襖の前で、どうだといわんばかりに鼻を広げ、あとはあそこに訓律でも表装して飾るといいのだが。
「一水なにかあるか。」と声をかけた。

「ありがたい。」そういって篭の中から筆文を取り出し広げた。


 ただ、一粒の水であろうとも 空にあれば皆を映す鏡となる
 信心を揺さぶり起こすには自らがきれいな玉でなければならない、
そう思い菩薩が涅槃に渡るために納める6つの徳を自らに課して励んできた

「このコトバをそこに掛けたい」

今生に生きる実在としても天上の使徒としても道風は一水を眩くまばゆく見つめた。ただ一人の顕在に限りある身でありながらその御玉には、人の善き所を映し輝いている。

ヘビはそんな道風をみて当然だ、とよろこんだ。

  

   ー六波羅蜜(ろくはらみつ)ー
(布施)(持戒)(忍辱)(精進)(禅定)(智慧)

仏教用語

「こう短く記しても良い」

 それを聞いた道風はなあに、広い道場だ両方書いて掛けようぜ、と文机と筆具を取りだした。
「そうか、写経場か、そうするのが一番いいな。」感心して一水がいう。
「何をいまさら、そのつもりで作ったに決まっているだろうが」
ガッハッハッと豪快に笑い飛ばして道風は答えるのであった。


7.熱



夕刻となり、一葉さま お帰りで、と達吉が炊事場の方から入ってきた。
触れれば熱が伝わってきそうな日焼けした肌、頭はあの達谷の岩崖のように白灰色をしている。達吉の方も丸く剃髪した頭に目をやりようこそご無事で帰られましたと涙を浮かべた。

「留守の間はどうであった。」と尋ねると
「変わらずでございます。耕作地を手放して地方からくるもの多数。瀕して京を出るものも多数。商人は自分が利することばかりでその利を狙って賊が押し入る。その繰り返しですが、実頼様のご援助もあり井戸へ水仕事に来るものを手伝い、わずかばかりではありますが米を混ぜて炊いた飯を配ってもおります。」

「あっ、きちんと井戸をこしらえて下さった一水様から、ひいては仏様からの有難い施しですとお伝え申しておりますよ。」、そう達吉は付け加えた。

井戸もみなで掘ったもの、食べものにしても援助とみなの苦労があってこそ
みなに仏の慈悲の心があってこそ、自身が助けられてきたことを思い返す。

「よし、さっそく明日から市にでる。その前に達吉、この梅を塩漬けにしておきたい、手伝ってくれ。」とそう言った

1年目の梅は3つ仕込みをした。少しずつ塩の加減を変えるためだ。
京は東国より気温も湿度も高い。盆地になっているから余計にそうだ。
空気も抜けにくく死者が多いと空気も澱む。流行り病に効くといいのだが。
梅の出来栄えを祈りながら、壺を畳の下に戻した。

延長8年9月29日
 京に戻り、一月が過ぎる頃、道場に醍醐天皇崩御の知らせが届く。
 役人は一緒にお出でになりご法要をと支度を待つ。法衣を身に着け、頂いた鉦と撞木を用意する。おいで、と杖にへびを手招きした。
一緒に浄土を願おう。それに子に先立たれ法王もさぞご心痛であろう。
 もっともその子に早々と天皇の地位を譲り渡し出家した法王である。
若くして天皇となった醍醐天皇は不安もあっただろう。周囲の讒言に道真公の大宰府左遷を敢行したことも親子関係に禍根を残した。

 すべてはただ在り、過ぎたこと、許すも許さないもない
 出家したときに頂いたきりの色褪せた法衣それでもきちんと手入れを怠らずにいた。役人と共に向かった先、宮中で実頼が待っていた。東国から戻ってから一度もあってない。久しぶりの再会に喜ぶものの天皇の崩御に際して
表情を押し込めて実頼は一水を迎え入れた。

 「天の乱れも相変わらず続き、4月の落雷以降すっかり気力を失くされ、臥せることが多くあった。ある程度は予想していたけれど、ここにきてさらにご容態がひどくなりその対応に追われていてね。さすがに現役の天皇が若く崩御したとあっては民の動揺と朝廷に対する不安もひどかろう。崩御を次の朱雀帝に即位した後との工作もてんやわんやさ。」

 そう小声で話し広間に通された。前の方には祖父、宇多法王の姿も見える。比叡山、高野山、山で修養を積み重ねている僧侶たちに混ざり末席ながら心を込めて読経した。それぞれの声色が混ざり合い大きなうねりとなって天に昇っていくような不思議な一体感を味わった。
 
天皇という一人の生身の人間の生が終わったことに対する供養である。

衆生にも皆でこのような経があげられないか、いや衆生だけではない。
貴賤聖俗、一切問わずだ。皆で思いを軽くして天へと昇る験をしたい。
 
仏僧としてやるべきことが具体的に見えた瞬間であった。



 醍醐天皇の法要以降、時折、一水は宮中に説法に招かれるようになった。
説法といいつつその実、めっきり年老い気力が弱った宇多法王とそのひ孫
後の村上天皇となる成明なりあき様の話相手である。父、醍醐天皇をたった4つで失くした阿古に、宮中で目の前にいる法王の膝に載り漢詩を諳んじていた子どもの頃の自分を重ねて懐かしく思う。
 漢詩に加えて今、主流の和歌も学ぶ。若木が水を吸い上げるように、どんどんコトバを吸収する姿に目を見張る。

 一水は存分に枝を伸ばした成木だ。しかし、一つずつ年輪を重ね大きく強くなっていく。いや、強くなっていけるよう精進せねばならない。
 市井の一法僧ばかりを贔屓にしているとうわさになるのをさけ、一水を呼ぶときは常に他の僧侶もよばれていた。修養の末、高慢となり明らかに見下す僧もいれば、分け隔てなく接し、寧ろ一水の游行の経験から聞き学ぼうと聴講を望む僧侶もいた。お互いに修験の場は違えど現世で励むもの同士いつでも協力するという言葉が嬉しかった。

市井では、十一面観音像を後ろに背負い、なむあみだふ との称名を広め
力仕事であっても惜しまずに力を尽くした。

自らは空に浮かぶ水であろう、落ち着いた澄んだ心でいようと思っていても
心乱れ、天に慟哭したくなることも度々あった。

 宇多法王が崩御して2年後、京都地震で大きく2回大地が揺れ動いた。
 いよいよ地方も朝廷の威光に陰りがでたのか。奥州平家の内紛に藤原純友による海賊行為が勃発する。衆生の生活もそぞろだってきた頃、前をはるかに凌ぐ大きな地震が京の都を揺るがした。
4月15日、後に天慶地震とよばれる大地震だ。宮中でも4名が亡くなる。
そんなひどい揺れに市井などひとたまりもなかった。
修繕も食料も何もが皇族貴族大きな寺が優先だ。気温が上がるにしたがって衛生状態も悪化する。念仏を唱えて浄土になんてと、唾を吐きかけられる
こともあった。高く死人が積みあがる。

 忍従の徳、これほどまでにつらい状況にあって修身することなど、とてもできることではない。ひとりで忍従する必要などない、仏に向かって思いをだして祈ってほしい。それできっと軽くなる。浄土にそのままうつるのだ。仏はきっと見捨てはしない。だからこうして私はここにいるのだ。

でも私一人ではとても映しきれない。
もっとたくさんの人で、たくさん映しとりて救いたい。

 表に裏に協力してくれるものを募り一人ひとりには若干であれども、来る日も来る日も握り飯と梅干しとこぶをいれた茶を施した。朝廷よりもっと高いところから天の仏様が見ていることを知らせるために寺院と仏像の建立にも力を注いだ。新たに作った寺は達谷西光寺から頂き西光寺とした。

寺に昔、へびと出会ったときに預かった大きな玉。それを宝珠として仏像と一緒に祀った。蛇も寺に願いにくるものの『重い』を懸命に呑んだ。豊かなときの願いと瀕しているときの願いは違う、より生そのものへの願いだ。
生をなによりも慈しむが故の生宣いのり。
それが天帝、一水のいう仏に届かぬわけがない。届け・届け・届け。

もう一葉であった頃の一人の熱ではない。あたたかな空気が流れ込むように
みなの願い、みなの祈りとなって少しずつだが着実に大きくなっていった。


8.その日


応和3年8月23日
その日はよく晴れ渡っていた。鴨川の水面がキラキラと輝く。
 あの修羅のような災害からも人々は逞しく立ちもどる。市の聖とよばれ、市井にでれば手を合わせ微笑み挨拶を交わす。そんな日が続くと特に仏の教えを広めることなど無用かという気もしてくるから不思議なものだ。

だがしかし、あの修羅の中にあっても皆と一緒になって炊き出しを行い、
汗をかいて力仕事をした日々は生の充足感に溢れていた。

あの天皇の法要の際、皆で声を合わせて読経をした、あの一体感。韻を踏んで声を出す、その行為の高揚感。一人経典を無心に書き写す心の静寂が空とするとそれもまた空であった。温かな空気に満たされていた。貴賤清濁一切問わず、一体となれたら。南無阿弥陀仏を唱えてみんなが浄土に映し出されると同時に一人ひとりに浄土が照らし返され映し出される。それはその瞬間はこの地上が浄土といえるのではないか。

 40を過ぎてふと夢見たそのような想い賛同してくれるものがひとりふたりと増え、今日、この日この場所に集まってくれた。

 宝殿を造り招いた僧侶は600名、金字で書き写した般若心経も同様に600巻
いくばくかの貴賎を払えば誰でも参加できるとし市井のものも次々に岸に集まってくる。実頼は右大臣となっても変わらず、陰に日なたに援助もしてくれたが、市井のものと変わらぬ、一般参加してくれた。
一水は60になっていた。大きく年輪を刻みしっかりと根を張っている。達吉は先に往ったが浄土で見ていてくれるだろう。道風は身は老いたが健在だ。

 今日この場所で般若心経読経による大供養会を行う
 高らかな一水の掛け声に呼応して低く重厚な経が辺りに響き始めた。

 その前の晩、一水はヘビと向かいあい透き通る器に酒を注いでいった。「今までのお礼だよ。それと、これ、約束だったね。」
 小さな革袋からきれいな玉を2つ取り出す。かの者と、京を立つ前の一葉の『おもい』からできた玉がろうそくの光を受けてきらりと光る。

「ここまで一緒にいてくれてありがとう。」
「明日の供養会でもう思い残すことはなにもない。
 君もどこでも好きなところにいっていい。」

この者との使命が終わったら、縁を断ち切る

あのとき天帝に言われた言葉がまざまざと蘇る。
別れたくはない
いつだってこの者はきらきらときれいだった。

「君は出会ってからちっとも変わらないね。
 僕はほら、この通りしわだらけだ。」そういってくしゃくしゃに笑う。

分かたれたくない

そういうヘビにこの者はいった。
「みな誰しもそうさ。だからこそ一体になることが何よりの至福なのだよ。
 明日はこの世の至福、浄土の映し世を皆で味わいたい。
 誰より私は欲が深いのかもしれないね。」

「私も別れがたい、だが君のようにいつまでも生きてはいない
 だから、お別れをいうのは今ここでにする。」

詰まるような思いを収めて最後に軽くこう言った。

ありがとう

蛇は、アリガトウ のコトバも言えるようになっていれば良かったと
お酒の上に涙を一滴ポチャンと落とした。


9.来迎


 一水を始めとする僧侶の抑揚のある経の合唱
一般のものも一緒に手を合わせ 声を合わせ 心を合わせる。

一昼夜行われるというのにその声は一向に衰えることを知らず刻が立つごと大きくなってくる。その中には戸籍を失ったいわゆる乞食もいたが手伝いやなにがしかのものを投じて参加していた。

 道風がヘビにいう
ほら、あの使徒も身をやつして来ているぞ。天帝も天上から見ているな。

 使徒はいい。人の姿で一緒になって交わることができる。
それはそれで苦労もあるのさ、何度も身を変え地上に来る道風は達観していう。でも別れだけはいつまでも慣れないねえ。

そろそろか、

道風が西の空を見てそういった。
西に落ちていく日に照らされて、雲がむらさき色に染まっていく。経の音色が心地よく水のように揺らめいている。皆が今ぶつかることをせずゆらゆらとゆったり揺蕩っている。

道風、例の件、くれぐれも頼んだぞ

ヘビは岸の向こうの一水をまぶしく見つめた。
ふるい皮を脱ぎ捨て見えないように姿を消した。この南無阿弥陀仏を称して出された皆の『おもい』すべて呑んで天上に持って行ってやる。

すうーと大きく息を吸うように『おもい』をのんだ。
だれの思いもただただこの一瞬を一緒に過ごす幸せに溢れ軽かった。
ヘビのからだは皆のおもいで大きく大きく膨らんだ。そしてゆっくりを空に浮かび上がっていく。

紫雲は仏が来迎するという天上へ流れつく雲
一水の描いた希望は天の計画でもあった。

 振り返らない、振り返ったら我の重いで落ちていく。
 上を向き水の中を揺蕩うように高く高く昇っていった。

一水はヘビと通じる不思議な力を持っていた。姿は消していたが、みんなのおもいを呑んで天上に向かう蛇を感じて天を仰いだ。

気配が消えていく寂しさを振り払うようにまた鴨川の水面に目を向ける。
夕日が一筋差し込みキラキラと光る。

空になくても 皆もまたキラキラ光る水である。
仏の像の優しい目を思い出す。そんな目で映しとれているだろうか。

まだまだこれからだ、一水はそう思った。


ーこの者こぼれ話ー
250年後、あまねく民を映しとりたいと願う仏師が現れた。そのもとに実頼の遺品で市で游行する一水上人の絵と2つの光る玉が巡ってきた。
一水のその慈善を記した書にも絵にも感銘を受け一体の像を造り上げる。
その目に光る玉を入れて。1000以上の年月を経てなおも魅了する像である。
 



 プロローグ 


 

旅のはじまり

天上に戻ってきた。
濃くて長い旅路から戻ったというのに、いつも天上にいたかのようだ。
 天帝は上機嫌だ。
ヘビの出した皆のおもいは朝の陽光のように八方に白金色の光を放つ。
木のそばの水辺に入れると7色に光輝いた。


ふむ、やはり水の中が一番よいな

さて、主にはふしぎな力があるようだ
それをわしも感じてみたい
そばで仕事をしてほしい
仕事はなんでも選ぶがいい

ヘビはこの水辺が見れたらどこでもいい、とそう答えた。

ならば、この木になる果の番をするがよい。
大事な果だ、決して取られてはいけないぞ。

それは、天帝の使徒は別であった。ときおり果をたくさん積んでは厳重に警護して持っていく。一体なんの果なんだろうか。

まぁ我には関係がない。木の高い枝に登りそよそよとそよぐ木の葉をみる。
光沢のある葉はキラキラと光っている。またある時は水面に目を映す。
キラキラとした輝きに地上での旅を思い出す。

時折、果を求めてやってくる者がいる。地上から天上に上がってきた者だ。天上に来るには2通りの方法があるらしい。

ひとつは修練により空の境地に至り引き上げられるもの
もうひとつは軽くなって上がってくるものだ

どうもこの木の下に集まるものは軽くなってくるものらしい。
みなほかの者との交わりを求めている。木の下でもざわざわと騒がしい。
そのざわめきがどうにも心地くこの者どもと一緒に地上に旅に出たい、
へびはそう思うようになった。

果を取ろうとして捕らえられたものは他の見張りに連れていかれる。
蛇はそそのかすふりをして気をつけろ、と警告する。
それでもまたやってきては木の下でくつろぎ話をする、
もう~、なんのはなしですか、なんて笑っている。

なんのはなしですか

蛇は耳を疑った。近頃そうおしゃべりするものが増えている。
地上にいきたい、この愉快なものたちと。

さて、どうやっていこうか
こんなとき、どうしていたっけ

ナ ン ノ ハ ナ シ デ ス カ

ヘビはそう呟いた

コノ モノ タチ ト チ ジョウ 二 イ キ タ イ

そうだ、そういってイノルのだったな。

そうすれば物語がはじまる

水面がキラリとひかり
蛇の前に木の果がポトリと落ちた
木にもたれ掛かり寛いでいた天の使徒が腰をあげる
かつては地上で道風と呼ばれていた天の使徒だ

さあ、これからどうなるのか
きっと上手くいくさ、魔法のコトバだ
軽くワクワクした気持ちでそう蛇は思うのだった

    ー  完   ー















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