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小説|深海の底

 彼女が振り向けば、とてもいい香りがした。
 それは甘く滑らかで、それでいてしつこくなく、するりと鼻先を通り過ぎていく。
 目の前に現れた、絵画のように完成された、整った顔の、唇の部分が小さく動く。
 あなたはここで、なにをしているの?
 彼女の口は、確かにそう、動いていたはずだ。
 私が返事の言葉を用意している隙に、ふと、彼女は消えてしまった。
 甘い香りが風に吹かれて遠くに舞う。
 桃色のクッションに、彼女の身体はつつまれていた。
 左のわき腹と右の胸。それから、右のふとももにもだろうか。桜の骨が彼女を留めて放そうとしない。
 彼女の顔は、美しかった。
 それは変わらない。

     □

 彼女は美術部部員だったようで、歩くたびに、常に持ち歩いている参考書くらいの大きさの箱からは、からん、からん、と音が鳴った。何が入っているのだろう。どんな絵の具が詰まっているのだろう。私たち下級生は、そんな彼女のことを興味津々で追いかけていた。
 しかし一年も経てば皆興味を失い、離れていく。彼女の同級生たちも、もはやいないように扱っていた。彼女はそれを気にしている様子はなかったし、むしろそれを都合よく受け入れているようだった。
 私の周りからも人間が離れていった。
 教室の中にはいくつかの島ができている。大きな二つの島と、それにくっつくような中くらいの島、それらの間をふらふらと漂う小さな島。私は、そのどの島にも属さない、空気のような存在となっていた。だからと言ってクラスメイトから悪質なちょっかいが出ることもなければ、除け者にされることはなかった。単純に、私に興味がないようだった。
 そんなことだから、私の居場所は教室にはなかった。
 そのことを嘆くことはしなかったが、居心地が悪かったのもまた事実だった。
 学校を彷徨っているうちに見つけた、出入り禁止のテープがはられた鉄の扉。一番端っこの階段を上りきった先にある、別世界への境界線。
 しかしそこには、誰かが通った形跡があった。
 来てはいけないところに、ほかの人間がいる。
 もしかしたら、ガラの悪い不良が集まっているのかもしれない。
 もしかしたら、私に似たような境遇の人がいるのかもしれない。
 どちらの選択肢にしても、私にとっては何の影響もなかった。空気である私に対して、他人などもはや別次元の存在。意識するだけ無駄な行為だった。
 取っ手を掴む。
 きゅるり、と音がして、扉は開いた。
 途端に、大量の光が目に飛び込んでくる。その刺さるような直線を、私は手の平で受け止めた。指の隙間から漏れ出すいつもよりも眩しい太陽が、目に染みて痛い。扉の隙間から流れ込んでくる風は熱を含んでいて気持ち悪い。脚の間を通り抜けて行く。スカートがふわりと持ち上がった。
 私は重たくなった扉をこじ開け、屋上に出た。
 風に乗って、二つの香りが私の鼻の先をかすめた。
 喉の奥をひっかくようなアクリル絵の具の匂いと、ふんわりと甘いお菓子のような女の子の香りだった。
「あら、お客さん?」
 突然、上から声が降ってくる。
 振り返った。
 扉の上の部分、校舎とつながっている部分に、彼女はいた。
 そこは完全に彼女の世界で、空間で、誰も寄せ付けない領域だった。
 イーゼルの上にはいくつも色が重ねられたキャンバスが立てかけられていた。私の眼からはうまく確認はできないが、どうやら深海の絵を描いているらしい。濃淡のはっきりとした青い色が、彼女の世界の上で波打っていた。
 彼女はその部分からジャンプをし、降りてきた。
「あなた、一年生でしょう。こんな時間に、それも立ち入り禁止のところに来るだなんて、なんて不良なのかしら」
「そういうあなただって、午後の授業が始まっているのにもかかわらずこんなところにいるじゃないですか」
 私が言葉を返せば、彼女は、くすり、と笑った。美しかった。
「わたしは今、美術の授業中なのよ。それでこの場所に来て描いてるの」
「視界には山しかないのに、深海の絵を描いているんですか? それに、もし授業で描きに来るのだとしたら、先生はこの場所に立ち入ることを許さないと思います。いくらいい景色があったとしても、それは一つ下の三階で描けばいいと、先生は言うはずです。違いますか?」
 そうすると、彼女は少し困ったような顔を作った。口を窄め、子供の様に拗ねていた。
「なんて意地悪い後輩なのかしら。先輩に向かってそんなことをいうだなんて。間違ってはいないけれど、あなたももう少しその警戒を解いたほうがいいと思うわよ。あなたの目の前にいる人間は、あなたを傷つけたりはしないもの。あなただって、そうなんでしょう?」
 そうなんでしょう、と問われたところで、私が正直に答えるとでも思ったのだろうか。
 無論、私は彼女を傷つけるようなことはしない。意識的に攻撃することはないだろう。先ほどの時のようにそもそもの私を形作るものが彼女に対して攻撃的だったとするならば、それはしょうがないことだ。
 彼女は、私と同じ部類の人間だ。
 いつの間にか、居場所がなくなった人間。
 他者にしがみつこうとはしなかった人間。
 けれど、誰かに依存したかった弱い人間。
 お互いに、見えない線でつながっていたかのように巡り合った。
 運命的なものであると疑わなかった。
 疑う気持ちが起きないほどに、私たちは求めていた。
 彼女が、欲しかった。

     □□

 それから、私は幾度となく彼女の元を訪れた。
 私は彼女の世界への干渉を許され、絵を描く彼女の後ろに座る。
 筆は真っ白なキャンパスの上を滑らかにすべり、色鮮やかな世界を投影していた。深海の絵は、地面で乾かしている。そのまま絵の中に落ちてしまいそうなほどに深く、そして美しかった。いま彼女が書いているのは遠くまで広がる花畑。チューリップやマリーゴールド、コスモスなどの名前の分かるものから、まったく知らないものまで、季節という隔たりを越えて散在していた。
 私もスケッチブックを持ってきたが、彼女の様にうまくはいかなかった。不貞腐れて、鉛筆を放り投げる。
「どうしたの?」
 からん、と鉛筆が鳴いた時、彼女は筆を止めて振り返った。
「絵を描くことができないんです」
「あら、何を描こうとしていたの?」
「私の頭の中にある景色を」
 ため息が一つ、聞こえた。
「そう。あなた、いきなり難しいことをやろうとしているのね。別にそれが悪いわけじゃないけれど、もし絵を描けるようになりたいと思うなら、別のことから始めたほうがいいわ。たとえば、模写とか」
 私が反論のために口をひらこうとすると、彼女にさえぎられてしまう。
「それでもあなたは、言い訳しか言わないんでしょうね。“模写の仕方が分からないから描くことができない”。そう、言おうと思ったんじゃないかしら? でもね、それはあながち間違いではないのよ。普通の人が聞いたらいいわけだと切り捨てるようなことかもしれないけれど、あなたが言っていることは大体あっているの。
 わたしたちにできること。これは、わたしたちが“方法を知っていること”という風に言い換えられるのね。たとえば、自転車の乗り方を知っているから、わたしたちは乗ることができる。日本語で会話をする方法を知っているから、わたしたちは意思疎通を図ることができる。だからもし、自分にできないことがあるのだとしたら、それはその方法を知らないだけなのよ。方法さえ知り、理解すれば、わたしたち人間にとってできないことなんてないわ。
 わたしだって、絵の描き方を知らなかった頃はあなたのように投げ出していたわ。もう嫌だ、わたしには才能がないのだ、という風に諦めていた。いいえ、そうすることによって自分を守っていたのかもしれないわね。すぐにできないことがあるというのは、わたしにとって屈辱でしかなかったから。できることだけを、思う存分やればいいんじゃないか、とも思ってたわ。でもね、そんなことではだめなの。もし本当にできるようになりたいのなら、自分の自尊心を傷つけたくないのなら、その方法を学ぶべきなのね。すぐにできなくても、方法さえ理解すればできるのだと自分を励まして、やっていけばいいのね。
 あともう一つ。わたしたちは、痛みと一緒でないと成長することができないの。ほら、たとえば、わたしたちが成長するとき、女の子にはあまり縁がないことかもしれないけれど、成長痛、ってあるじゃない。急に背が伸びて、身体中が痛くなるもの。その時の痛みというのは、身体のどこかで起こっている、具体的な肉体の不調じゃない? それを通らずして、大きくなることはできない。
 それは心の中でも同じ。悩んでいるときは、何かできないことを自分のものにしようと試行錯誤している時なの。その時の胸の苦しさは、成長のための痛みだと捉えることができるわ。けれど、心なんてわたしたちには見えないでしょう? だから、余計に苦しくなる。なぜ自分が悩んでいるのかが分からなくなる。もしその理由が分からずに悩んでいたら、この原理を理解せずに悩んでいたら、とてもつらいことだと思うの」
 あらごめんなさい、と彼女は顔を赤らめた。
 なんて長いこと、彼女は話すのだろうか。
 でも、それは苦痛なことではなかった。
 私が彼女のことを欲していたわけじゃない。
 彼女が私を慰めてくれたからじゃない。
 彼女の言葉こそが、私の求めていた答えだったからだ。
 私は、鉛筆を拾った。彼女の元へ行く。
「……やり方を、おしえてください」
 彼女は微笑んだ。

     □□□

 雨の日でも、彼女はそこにいた。傘を差しながら、色を重ねていた。しかし雨に濡れたキャンバスは、彼女の筆を妨害する。それでも彼女は描くことを止めなった。
 私は後ろで、その様子をただ見ていた。
 彼女が生み出す作品は、どれも平面的ではなかった。立体的でもなかった。その中に、完結した閉じた世界が投影されている。まるで別の世界を描き起こしているかのように、それらには意味が付与されていた。
 彼女は何かに憑りつかれたかのように筆を動かしていた。でもその姿は流れる水のようで、時間が止まったような美しさがあった。神が愛をこめて世界を創造した時のような、作品に対する愛おしさというものが感じられる。
 私には、できない。
 深い森の絵を描き終えたところで、彼女は不意に口を開いた。
「あなたは、なぜ偉人と呼ばれた人々が早くに、それも変な死に方をしているか、知ってる?」
 私は首を振った。
「そう。ならいいのだけれど」
 彼女は新しいキャンバスをイーゼルにかけた。
「あの、」
 筆が止まった。
「……教えて、くれませんか?」
 彼女はしばらく停止した後、筆をおき、振り返った。
「あなたが知りたいというのなら、教えてあげなくちゃいけないわね。でも、難しい話よ?
 いつかに話したことがあったかと思うのだけれど、わたしたちは方法さえ分かれば何でもできる、という話。知っていることならば、わたしたちにとってできないことはない、ということなんだけれど、それはもちろんいいことだけではないのね。知りすぎてはいけないの。
 わたしたち人間は、できないこともあるから人間なの。すべてができてしまった瞬間に、できないことが存在しなくなった瞬間に、わたしたちは人間ではなくなるわ。実体をもった意識体、という風に言えるかもしれないわね。神様とはまた別の存在よ。
 でもね、わたしたちはそうなることを望んではいないの。そうなってしまったら、きっと苦しいだろうから。それは成長するための痛みではなく、壁にぶつかり続ける愚かな痛みよ。“すべて”の向こう側には何もない。途切れた世界が存在するの。
 だから、わたしたちは知りすぎてはならないの。知識は、時に毒となりうるわ。
 その毒に侵されて、偉人たちは死んでいったの。
 芸術を通して、革命を通して、彼らは本質を知ってしまったのね。
 知識の向こう側にある、“すべて”の先の領域。真っ暗闇の正体を。
 重圧に耐えきれなくなったとき、彼らは自らの命を潰したわ」
 彼女は話すのをやめた。
 立ち上がり、歩いてくる。
 息がかかりそうなほど近くに、彼女の顔が現れた。
 甘い、女の子の香りが鼻に侵入してくる。
 彼女は微笑んだ。
 それは完成された絵画のようだった。
 美しさを通り越して、恐怖を感じてしまうほどに、彼女の笑みは完成されていた。
「だから、あなたも気を付けるのよ? 知りすぎてもいけないということを、覚えなくちゃいけないの」
 彼女はその言葉だけを残し、下に降りていった。
 扉が閉まる。
 私はただ立ち尽くしていた。
 雨が降っていることも忘れて、ただ、彼女の言葉が脳に刻まれていくのを感じていた。
 嫌な予感がした。
 私は、知ってはいけないことを、知ってしまったのではないか。
 胸のなかがはっきりとしない薄雲に包まれる。
 雨は止んでいた。

     ■

 風が吹くと、桜の花びらが舞った。
 彼女の姿が見えなくなる。
 私はすぐさま根元を見たのだが、彼女はどこにも見当たらなかった。
 急に、胸が痛くなる。
 ぽっかりと、心の中に穴が開いてしまったような痛みだった。
 それは彼女を失ったことによる悲しみではないような気がする。
 私の心を作り上げていたものが、半分、失われてしまったような痛みだった。
 私は校庭まで降りていった。
 彼女が落下した桜の木まで行く。
 いなかった。
 職員室にも行った。
 彼女の担任を問いただす。
 彼女を知る者はいなかった。
 おかしい。
 何かがおかしい。
 彼女は確かに屋上から落ちていったはずだ。そして無残にも、桜の木の枝に刺さってしまった。血も出ていた。
 なのになぜ、彼女の姿が見当たらない。
 彼女は、わたしが作り出した幻想だったのだろうか。
 答えが見つからないまま、屋上へと戻る。もし絵が残されているのだとしたら、彼女は実在した人間だったのだということが証明できる。
 短い梯子をつたい、上る。
 そこには、深海の絵も、花畑の絵も、森の絵もなかった。
 イーゼルにかかっていたのは、二人の少女によって作り出されたハートマークの絵だった。
 片方は彼女にとてもよく似ていた。
 もう一方は。
「……私?」
 私によく似た人間が描かれていた。
 その絵からは、甘くて滑らかな、彼女の匂いがした。

【情報】
2012.06.20 21:54 作成
2022.08.08 12:50 修正(誤字・脱字)

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