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小説|ホネトオコ

「死神ぃ?」
「そう、死神。最近出るんだって」
「は? 馬鹿じゃないの?」
「嘘じゃないって! 最近隣の高校のやつが行方不明になったとかって言っただろ? それでそういう噂が——」
「そんなもん、でたらめに決まってるじゃん。どうせ家出だよ。家出。せっかくお昼ご飯食べてたのに……」
「でも……」
 彼は納得がいかないといった様子で、手に持っていたパンをかじった。圧力に負けて中のクリームが脇に飛び出る。それを落とさないように彼は舐めとった。男の舌を見てしまって、何とも言えない不快感に心が覆われた。もしこれが女子のものだったら——などと考えてみたものの、そういうことは起こりそうにもなかったし、何より性別関係なしに他者の口の中身を見るのは嫌なことだった。また気分が悪くなる。
 僕は立ち上がった。
「あれ、どこ行くの?」
「散歩だよ。教師にはトイレに行ったとでも言っといてくれ」
 それだけ言い残し、教室から出る。もちろんトイレになんか行く気もないし、校内散歩に出かけるわけでもなかった。普通に、街の中を歩き回る予定でいる。制服だと何かと厄介だろうから、部室のロッカーにしまってあるラフな私服を着ればいいだろう。こんな外見だから、高校生には見えなくなると思う。
 部室からカーゴパンツと七分丈、Tシャツを取り出すと、それらを着た。重ねて着て、袖をまくる。暑いのなら厚着をしなければいいじゃないか、とは言われるものの、肘より上が中途半端に出ていないというのが苦手な僕はこうやってまくり上げるしかなかった。それに、一枚だけだとなんだか不安になるのである。今から僕がやろうとしていることに間接的に言い訳をしながら、制服をロッカーに詰め込んだ。先ほど鐘がなったから、生徒も教師も外にはいないだろう。それでも万が一のことを考えて、茂みに隠れるようにして裏門のところまで来た。
「よっ、と」
 コンクリートの塀を飛び越え、街に出る。とはいっても、すぐそこには大きな山があった。皆が幽霊山といって近寄りたがらない、土の塊。今は真っ赤な衣をきてとても鮮やかだった。まったく、名前から連想されるようなおどろおどろしい感じはしない。
 ほんとうの名前は月影山なのだが、どうしてそんな名前がついてしまったのだろう。流れてくる噂というのはどれも単調なものでつまらなかった。怪談話のほうが断然面白い。夜に幽霊が出る、だなんてまったく面白味のない冗談だった。当たり前だ。霊は夜にしか現れない。それも、実在するのなら、の話だが。
 商店街のほうへ足を向ける。この時間ならば、恐らく子供へのおやつを買う母親を対象とした菓子類が多く売られていることだろう。パン屋ならば、メロンパンとかが安く売られてるかもしれない。適当に時間を過ごす。メロンパンがなかった代わりにエクレアを買い、店先で頬張る。向かいにある駄菓子屋に寄り、売れ残りのラムネを飲んだ。本屋で漫画雑誌をいくつか梯子をすれば、もう日は傾き始める。店の外には、学生の姿が見られるようになった。もちろんうちの学校のやつもいる。
 そろそろ時間かな。
 僕は何度読んだかもわからない週刊雑誌を棚に戻し、本屋を出た。人の流れに逆らうようにして商店街を抜ける。
 音が消えた。
 突然のことだったから、すぐに状況を把握することができなかった。瞬間的に感じたのは、周囲にあったはずの雑踏が消えてしまったということ。同時に、夕方の商店街からは人がいなくなっていた。ここだけじゃない。この街一帯から人の気配がなくなっている。車の音、鳥の音、風の音、自然に日常的に存在する音が消えてしまった。
 なにが、起こっている?
 一歩前に踏み出せば、ざらりと音がする。僕の聴覚機能がいかれたわけではなさそうだった。
 それならば、なぜ。
 ふと、目の前で何かが動く。
 それは影のように黒い生き物だった。形は烏に似ているが嘴がなく、人間の口がついている。何もない地面に立ち、ぎょろりとした黒い目玉を光らせながら、じっとこちらを見つめている。僕は何が起こっているかわからずにそれを視線を返せば、気味の悪い口を歪ませて笑っているようだった。そして首を傾げ、口が開かれる。
「ほう、この私が見えるのか」
 とても深く、暗い、男の声。おちょくっているかのような声だったが、深海に放り込まれたような孤独と圧力に、僕の心は早くも潰れそうになっていた。たった一言で、ここまで感情や思念が入り込んでくるものなのか——?
 それは烏の鳴き声にも似た声で笑うと、僕のほうを見た。
「なるほど、相当外れているように見える。しかし、案ずることはない。私と出会えるなど、貴様も運がいいな」
 小さな足でこちらまで歩いてくる。飛ぶことはないのだろうか、と思ったのだが、よく見てみると羽がなかった。ちぎれたのではなく、もとから生えていないようで、ゆっくりと、しかし確実に、僕との距離を縮めていく。
 それは、恐怖以外の何物でもなかった。
「また別の形で会うだろうな。その時まで、ごきげんよう」
 その言葉が耳に入った瞬間、ぐらりと視界が揺れた。立ってることができなくなって、思わずその場に座り込んでしまう。
「大丈夫ですか?」
 不意に声を掛けられて振り返れば、パン屋のお兄さんがいた。何をしているのか、と首を傾げたところ、彼もわからないといったように眉を顰める。
「さっきからぼーっと道に立ってて、急に座り込むもんだからびっくりしちゃいましたよ。救急車は呼んだほうがいいですか?」
「あ、いいです」
「そう。よかったら何かパンを持ってきてあげるけど……」
「大丈夫です。僕のことはお構いなく。ありがとうございました」
 少し乱暴になりながらも彼に返事をし、足早にその場を立ち去った。一刻も早く離れたかった。あの奇妙な場所から。あの気味の悪い生き物から。しかし逃げようとすればするほど、僕の頭の中でそれが口元を歪めて笑う。間抜けな顔をして走る僕を見て嘲笑する。影はいつも以上に重たく、全然前に進むことができなかった。
 月影山から一斉に鳥が飛んで空を隠した。

     □

 まったく眠れなかった。
 あの気味の悪い烏にあった後、学校に戻って服を着替えて教室に鞄を取りに行った。玄関から出た時に時計を確認したが、学校に来てからまだ五分と経っていなかった。どれだけ早く行動すればこんなことになるのだろう。意識はしていなかったが、僕はどんな顔をしていたのだろうか。もしかしたら、とても間抜けな顔をしていたに違いない。
 教員には出会うことなく帰路につくことができた。あの烏が最後に残した言葉が耳から離れなくて、恐怖で震えてくる。黒くて冷たい声が、耳の中で反響した。布団をかぶせても、音楽を流してもそれは消えることなく、それどころか、徐々に声の大きさが増していっている。少しずつこちらに近づいてくるような、夕方の時のような感じがまったく抜けてくれない。
 明日学校を休むために、今のうちから親には体調が悪いと言っておいた。彼女たちも大して僕のことに興味があるわけでもないようで、曖昧に頷くと粥を作るだけ作って冷蔵庫に放置していった。母親は夜に仕事があった。父は日にちが変わらないと帰ってこない。実質、この家には僕一人しかいなかった。
 冷蔵庫の中に入っていた食材で適当に料理をする。粥には手を出さなかった。食べ終わったころにはいつもの自分に戻っていた。
 夜も更け、鈴虫が鳴きはじめるころ。ふと、僕は外に出たくなった。
 特筆するような理由があったわけではないのだが、感覚的に、衝動的に家から出たくなった。このまま家にいても気分が悪くなるだけだろう。行く先も決めず、玄関まで降りる。外の風は冷たかった。それでも、どこか夏の匂いが残る空気には気怠さを覚えた。それから逃げるように僕は歩く。とりあえず商店街の方向へ行くことにした。もちろん、あの場所には近づくつもりはないが。
 住宅街を抜け、公園のそばを通り、僕の学校を横目に歩き、商店街の目の前まで来た。どの店も皆シャッターを閉め、静まり返っている。その、いつもと違う様子に足が止まってしまった。普段見ることのできない景色に、心を奪われた。いや、それだと大事のように聞こえてしまう。どんな言葉にせよ、裏側の顔を僕の頭は欲しがっていた。
 風が吹いた。
 すこし、冷たい。
 クスクス、という小さな子供が笑う声が聞こえた。
 少しして、何かがはばたくような音もする。
 ぬるり、と何かが動いた。寂れた商店街の道を、黒くて大きなものがこちら側に歩いてくる。
 先ほどまで静かだった耳の奥で、あの烏の声が響いた。
「どうも、こんにちは」
 目の前に、大きなものが立ちはだかる。
 高さとしては二メートルといったところだろうか。人の形をしている。ただ図体がでかい、というよりも、背が高いという風に認識されるのには、それの細さが関係しているのだろう。まるで骨のような、枯れた木の枝のような手足をぶら下げていた。
 月明かりが、僕たちを照らす。
 そこにいたのは、骸骨のような男だった。全身を黒いタキシードで包み、丁寧にもシルクハットまでかぶっている。しかし、肉らしい肉は見られず、顔もぺったりとしていて乾いていた。白い手袋をつけてはいるが、そこからも骨ばっている様子がよくわかる。声は、あの烏と同じものだった。
 僕はそれに対して何の反応もすることができずに、ただ立ち尽くす。
「ふむ。挨拶が間違っていましたかね。今は“こんばんは”が適切ですか。やはり、あの娘を連れてきた方がよかったかもしれませんねぇ。ワタクシにはわからないことが多すぎました」
 ありもしない髭を撫でるように、顎に手を添える。そして小さく微笑むと、もう一度口を開いた。
「どうも、こんばんは」
 それは人間の笑みではなかった。悪魔のような、幽霊のような、少なくとも生きている活力にあふれた人間の笑みではなかった。その威圧に耐えることができずに、足の力が抜けてしまう。その場に座り込んでしまった。
 男は不思議そうに僕のことを見つめると、しゃがんだ。
「ふむ。逃げないのですか。ワタクシのことが怖くないのですかねぇ」
「…………」
「でもなぜでしょうか。あの娘がやるのとはまた違う感じになってしまいましたねぇ。彼女は人間を誘うのがとてもうまい。そして、いつの間にか喰らっている。でも、どうも加減が分からないんですよねぇ。アナタ、どうすればいいかわかります?」
 低く、暗い声で、男は問うた。
 しかし、僕にそんなことを要求されても困る。僕はそんなことを考えられるほど余裕があるわけではなかった。
 逃げたかった。
 一刻も早く、この場から去りたかった。
 でも体が動いてくれない。足はまるで自分のものではないかのように力が入らなかった。それでも何とか逃げようと、手を使って後ろに引く。掌が石に引っかかって少し切れたが、そんなことは気にしている場合ではない。今ここで逃げなければ、あの男につかまってしまったとしたら、僕の命はないような気がする。生存本能が、火を吹くように警告していた。理由について考えている暇もない。
 しかし彼のほうが足が長いため、すぐに追いつかれて後ろに回られてしまった。
 頭の上に、骨ばった手が置かれる。
 ふと、体が軽くなった。宙に浮いている。
「あ、」
 気づいた時には、僕は全身の力をコントロールできずにいた。足だけじゃない。腕や胴、首さえも、動かすことができない。
 いや、そもそもの神経が切断されているのだ。
 下に転がる自分の身体を見つめる。首元からは血が溢れ、彼の足を汚していた。息をしようと思っても、ごぽごぽ、といった音しか出ない。
 男が、僕の頭を正面に向ける。
 「うむ。やはり加減が分からない。人間というのは、ここまで脆いのですか……。彼女は素晴らしいですね。自らの獲物のためにはそれをおいしく食べるために加減をする。見習いたいものです
 しかし、アナタには悪いですがここで死んでもらいます。いや、もうほとんど死んでますね。ワタクシの仕事物として、静かに命を刈り取られてください」
 そういうと、彼は空いた手を背後に回した。そして何かを取り出す。
 杖だった。
「ごきげんよう」
 平たい先端が右目を突き抜けたところで、僕の意識は途切れてしまった。

【情報】
2012.06.10 02:17 作成
2023.08.04 13:51 修正(誤字・脱字)

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