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9.閃きと気付き

私は20代の中頃に印象深い経験をしました。ある事柄の解決法をずっと朝から晩迄集中して探していました。それでもどうしても見つからなくて悩んでいたのです。ところがある時歩いていた道路の境界をピョンと飛び越えた時にその解決への閃きがピンと来ました。その時このことを考えていたわけではないのですが、多分頭の片隅には問題意識があったのでしょう。早速帰宅して整理したところ、綺麗に解決いたしました。このことは決して忘れられない経験として今も強く残っています。

これに似た話は幾つもあります。特に自然科学分野ではよくある話です。有名なのは、ベンゼン環の構造式はその提唱者が夢の中で蛇がトグロをまく様子を見て思いついたという話(真偽は不明)です。あるいは別の学者は、バスに乗ろうとして足をかけた時に閃いたとか言う話も聞いたことがあります。しばらく前にノーベル賞を受賞した日本の理論物理学者が、いつその様な理論を思い付いたのかという質問に、風呂から出てシャツの袖に腕をを通した時と答えておられました。これらに共通しているのは、必死になって考えている時ではなくて言わば少しリラックスした時だという事です。

同じようなことは、例えば全く新しいビジネスや商売の方法を考えついた方の談話などを新聞記事などで読んだこともあります。

つまりどの様な分野であっても新しいアイディアを思いつくのは、決してそのことを必死になって考えてる時ではなくて、むしろ幾分リラックスした時に考えつくことが多いということです。

釈尊は菩提樹の下での長い間の瞑想後におそらく幾分気持ちがリラックスした状態で、明けの明星がキラリと光る様子を見て何かが閃き、最初の教えの着想を得られたそうです。法然上人も長年にわたってあらゆる仏典を何度も読まれ、仏教の大きな体系の中での救済の道を求めておられたと思いますが、納得できる考えに至る事ができませんでした。ところがある時経典を読み疲れて、善導大師の「観経疏」の「専修念佛」を何気なく見ておられた時に閃きが生じて、念佛を仏教の体系全体で理解する立場から念佛のみによる救いへという着想を得られたのではないでしょうか。この様に私は釈尊も法然上人も深い思索の時ではなく、ややリラックスした状態でそれぞれの独創的な着想に到達されたのではないかと思うのです。

それに対して親鸞聖人の場合は閃きではなく、法然上人の専修念仏の教えを聴いて、大いなる気付きに至られたという気がします。つまり親鸞聖人は法然上人の教えを聴き、乾いた砂に水が染み込むように深くその教えを受け止められたということではないかと思うのです。勿論この様な気付きを得られた根底にはそれまでの深い悩みと思索があったからだとは思いますが。

これらお三方は最初の着想や気付きの後、人生経験を積むに従ってそれらの考えを深められそれぞれ独自の表現で自らの考えを述べられていったのだと思います。例えば法然上人の臨終往生と親鸞聖人の生前往生を幾分異なった考えの様に解釈するのが一般的ですが、これらは法然上人が主として権力の中心である京で法を説かれたことに対して、親鸞聖人は権力から離れた越後や関東で法を説かれたなど時期や権力からの距離の違いによる要素によるものであって、その違いを必要以上に強調すべきではないと思います。おそらくそれまでの人生経験などによって別の表現となっただけではないでしょうか。
あるいは次のようなことも考えられます。網野善彦著「日本の歴史をよみなおす」(ちくま学芸文庫)によると、日本の社会は14世紀頃に大きな転換期を経ているそうです。それに先立つ13世紀後半には自然に対する認識が大きく変わり、それに伴ってケガレに対する観念が変化して悪人という言葉の内容も違うものになってきたようです。法然上人の活躍時期は12世紀末から13世紀初頭であり、親鸞聖人が多くの書物を著されたのは13世紀中頃です。したがって法然上人の悪人と親鸞聖人のそれは幾分異なっている可能性があります。そのために法然上人・親鸞聖人お二方の表現方法に違いが生じたのかもしれません。

この様にそれぞれ着想や深い気付きの後に様々な人生経験を積みそれらの内容を深められ、様々な表現で教えを述べられていますが、それらの表現の違いをあまり問題にしない方が良いではないでしょうか。

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