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夏休みが終わる、秋の始まり

病院に行ったら、先生は「良くなってきていますね」と言った。確かにそうかもしれない。日常生活さえ放棄していた数週間前に比べれば、今はご飯をつくって食べたり、散歩をしたり、友人と会うこともできているのだから、外から見たら良くなっているとは言えるだろう。それなのに、なんというか、主観的には良くなった気がしない。自分のバイアスのせいなのか、本当は良くなっていないのか。それすらもよく分からない。

突然泣きだしたりするような衝動的な落ち込みは減った。その代わりに、落ち着いた、絶望のような何かに取り憑かれているような気持ちにはなることが増えた。不安と恐怖と痛みが混ざった重い足枷のような何か。日常生活以上のことはする気にならない。というか日常生活そのものも億劫ではあるけれど、それを維持しないとより悪くなるだけだという知識はこの数年で習得した。朝起きて夜寝る、ご飯を食べて、一日一度は外に出る、という生活をしている。大して楽しくはない。自分でつくるご飯だけは美味しいけど。

もうすぐ夏休みが終わる。「また勉強しなくちゃね」と言われた。学生なのだから当たり前である。でも私からしたら、憂鬱な学生生活の再開だ。この数年で学生生活が苦手になってしまった。ここからまた5ヶ月、やるべきことで溢れる日々が始まる。少し怖い。毎日の家事ですらできていないことばかりなのに。誰かと顔を合わせる授業もどうにも苦手だ。人の視線が怖い。注目されるのが怖い。いや、注目なんて大してされないけど。

分かっている。毎日の家事がおろそかになってしまうのも、人からの連絡を返さないのも、期日までに課題が出せないのも、全部自分が行動しないからである。できないんじゃなくて、していないだけだ。面倒だからと先延ばししているのは私自身で、誰のせいにもできない。

外にいるときは普通の人間を装える。闇を見せないように振る舞うのは得意だ。むしろ、そればかりが上手くなってしまった。そうやって人と会って家に帰ってくると、決まって虚しくなる。私が学生生活を上手くこなせないのは私が不適合であるからなのか、病気のせいなのか。こんなに気持ちが沈んで、日常生活で精一杯なのは私自身の性格や行動や考え方の問題なのか。病気のせいだったとしても、ただの言い訳に感じてしまう。

人は生きているだけで価値があると言う。私もそう思う。でも息をしているだけでは生活はできない。生きていけない。不思議な話だけどそれが現実。この状態から抜け出す一手が見つからない限り、私は生きていけない側の人間だ。初めて糸が切れたあの日から、私は何も変わっていない。これからも変わることがないんじゃないかと不安になる。来たるべき明日に不安を覚える日々からはいい加減脱却したい。


追記
あとから見直したら、まさに症状ど真ん中な表現や考えの羅列でした。うーん、そこまで思いつめなくてもいいのに…って私も思う。不安によって主観と客観が乖離しているし、なによりネガティブに偏った思考が現実だと思いこんでる。でも、実際に囚われているときはこんな感じの考えで落ち込んでいるので、せっかくだから残しておこうと思います。同じように思う人がいたら、病気が見せる幻想だから気にしないでゆっくり寝てね。

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