夏の始まりと、夏の終わり

僕は夏という季節が得意じゃない。単純に暑いという理由もそのうちの一つであることは間違いない。ただ、夏は眩しすぎるから得意じゃない。他の季節にはない喧騒も、惜しみなく実力を発揮する太陽も、学生たちが流す汗も涙も、全部僕には眩しすぎる。

輝いていて眩しいものは、美しいものだと思う。きれいなもの、美しいものは、見ていて心地よい。それは間違いない。だけれど、同時に自分に何もないことをひどく実感させられる。
自分が手に入れることのなかったもの。自分が手にするはずだったもの。自分が、手に入れるべきだったもの。
その全てを目にすることに、僕は少し耐えられない。ああ、ほんとうに何もないんだな、とただそれだけを思うようになる瞬間が夏には多い。

地元の小さな祭りに行った。行ったと言っても、何かを買ったりだとか、誰かと会ったりだとか、そういういわゆる祭りを楽しみにいったわけじゃない。
多少なりとも文字を書いている人間として、創作に対する気持ちを後押ししてもらいたかっただけだ。祭りという行事にはそんな力があると思っている。暗くなるなかで、提灯のあかりや太鼓の音が響く空間は嫌いじゃない。僕は今年も夏のなかに居たんだと、そう感じることができる。夏は始まっていて、僕もそんな時間のなかに居たんだと、そんなふうに思うことができる。

ただ、そうは言ってもそもそもとして僕は人混みが得意ではない。十分に祭りというものの雰囲気を堪能して、帰ろうとしたときだった。
手を振られた。
声をかけられたわけでも、何か特別な行動があったわけじゃない。けれど、確かに目は合っていたように思う。こちらに向かって手を振って、笑顔を見せた女の子がいた。
僕はここ数年、知り合いと呼べる知り合いがいない。地元の小さな祭りであったから、おそらく小学校、もしくは中学校の知り合いだったのだと思うけれど、名前を思い出すことはできなかった。それほど長い時間ではなかったというのもあるだろうけれど。
彼女は一体誰だったのだろう。そもそも本当に手を振られたのは僕だったのかという疑問もある。けれど、何か、とても大きな何かを逃したような気がしてならない。
無理にでも追いかけて、失礼を承知で名前を聞くべきだったのかもしれない。
何も行動を起こさなかった結果引き起こされた、ずっと心に引っかかったまま離れないような虚脱感が、拭えない。
こうして、僕は自分が何も持たない未来を選んだことを実感する。
夏が始まったその日に、僕の夏は終わりを迎えた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?