「ことばにできないけどすごい」という思考放棄

どうも、よわのあきです。
思えばこの挨拶はずいぶん久しぶりな気がしている。違ったら、違ったということで納得することにする。

今回書いているこの文章の本題は、タイトルにある通りである。内容を直接的に表しているタイトルをつけるのも自分のなかでは少し珍しい気がする。
と、そんなことは置いておいて、本題である。
僕は、「言葉にできないんだけどなんかすごくて」や、「言葉にするのが失礼なほど美しい」みたいな表現が好きではない。嫌いとまではいかないが、もしかしたら嫌いと言ってしまっていいのかもしれない。

理由はいくつかあるのだけれど、わかりやすいものは「自分の感性と語彙の乏しさを棚に上げて、想いにすることを諦めたままポジティブにまとめ上げている」ことに加え、あまつさえそれを他者に発信している点だろう。
このアーティストの曲の、あるいはこの絵画の、もしくはだれそれの小説の。対象はなんだっていい。聴いて、見て、読んで、その果てに抱いた心情を他者に伝えようとしているのにも関わらず、「理由はわからないんだけどすごいんだよ」だとか、「言葉にできない凄みがあって」だとか。
そういうものは、この世全ての言葉を正しく自分のものにしていて、この世にあるあらゆる表現を正しく身につけた人間だけが使うことを許される表現だと思う。

理由はわからないとか、上手い言葉で言えないんだけど、とか言われてしまったら、「ああ、その程度の作品だったんだな」、「君にはわからないレベルのものなんだから伝えなくていいんじゃないのか」などとこんなふうに思う。そもそも、「自分にはわかりませんでした」と暴露することにどんなメリットがあるんだろうか。感性の弱さ、言語力の低さを自ら他人に伝えたところで、対象にされてしまった作品群が浮かばれないだけではないか。
もっと考えていけば、表現に値する言葉が見つかるかもしれない。パズルのピースを埋めるみたいに、その作品に対応するのを待っている表現があるかもしれない。
想いを正しく想いにすることを諦めて、「なんとなく」で済ませてしまうのはあまりにも傲慢な行いだ。言葉や感情に対する冒涜ですらあるだろう。

こういうわけで、僕は上記にあげた言葉回しに対して強い拒否感を持っている。
自分のなかにある言葉、育ってきた表現を殺さないようにするために、僕は感想に対する吟味を重ねていきたいと思う、そんな話。

ところで余談だけれど、このところ少しずつ過去に書いた短文をこちらでまとめている。片手で足りる数しか残っていなかったらもうすぐまとめおわってしまうけれど。
ではまた、次の自分へ。

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