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新聞白旗7号:白旗を上げてついて行く

おとといだったか、なにか面接試験みたいなもの(?)を受けていて「好きな建築家は誰か」と聞かれ、「エットレ・ソットサス」と答えている夢を見ました。

朝目覚めて「すごく久しぶりに思い出したなあこの名前」と思いました。

ソットサスのことを自分は全然多くは知りません。どうして持っているのかもいつから持っているのかも思い出せない、ソットサスの写真集を1冊持っているだけ。そこに映っている作品と写真の質感だけが、私の知っているソットサスのすべてです。

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△「とても美しいベッドのデザインーー誰もが香り付きのベッドを持っているわけではない」と題された写真(同写真集より)

この写真集は若い頃から好きで、引っ越すときも手放さずに持っていて、「家が火事になったら持って出る3冊」の中に長いあいだ入ってた1冊でもあります(なんでそこまで思い入れを持ってたか謎💦)。ただ、ここ20年くらいはずっと忘れていた。

それにしても、夢の中では「好きな建築家」を問われてたはず。「だいたいあの人は”建築家”と言えるのかな?言えなくもないけど……」と思ってググってみたらば、結構いろんな緻密な仕事も手がけた人だったらしいことが発覚しました。

オリベッティの赤いタイプライターをデザインした人だったし、デザイナー集団〈メンフィス〉の中心人物だっりしたし、ちゃんと建築の仕事もしていたし、写真も撮ってたし、ビート詩人たちとつながってもいて詩も書いてたらしい。

おおそうだったのか、と経歴にやや圧倒されつつも、ソットサスと交流のあった三宅一生の証言にいちばん気が惹かれました。

「人は頭で行動するが、もっとも大切なのはフィーリング、タッチだ」

と、ソットサスは三宅さんに語ったそう(『倉俣史朗とエットレ・ソットサス展』に三宅一生が寄せたメッセージより)。

■フィーリングとタッチから、なのか

大手のクライエントからの翻訳仕事をこなすことが大部分だった日常を脱して、その長年の暮らしのパターンが変わったという事実に自分をフィットさせるまでのオロオロ期間があって、新しい日常が「なんかこれでいいみたい」「これが自然」という感じになるまで、自分の場合、結構何カ月もかかりました。

翻訳も通訳も、今は信頼の置けるつながりを通じて心に叶うものだけをやらせていただいていて、幸せ。

そしてパソコンに向かうよりも手仕事をしている時間のほうが、いつのまにか増えていました。

毎日、何をして過ごしている時間が多いかによって、自分のアイデンティティ(というか「自分は何者か」感)って変わるんだなあと、少し前にそんなことを実感していました。

今はパソコンに向かって文章を書くことが主ではなくなっていて、どちらかというと、日々、剪定木や風倒木からいろんなものづくりをすることが主になっていて。そのための道具のメンテや、何をどうつくるか考える時間、必要なスキルの練習なども含め、そちらに比重が傾いています。あとはオンライン通訳と畑仕事と庭仕事と家事。

そうやって日々を過ごしていると、自分はそういう人なんだ、という気がしてくるからふしぎ。

今日はひさしぶりにこうしてパソコンに向かって文章を書いていて、なんだか懐かしい感覚です。体を、手を、動かしていることがここしばらくデフォルトになっていたから、じっと座ってパソコンに向かっていることに新しさを感じる。

それにしても、「自分はそういう人なんだ感」ってこうやって移ろうのだなあと、興味深く観察しています。

「自分はそういう人なんだ感」は、お金をもらえる仕事としてフルタイムでやっているかどうか、みたいなことで決まるわけでなく。他者から「あなたはそういう人ですよね」と認識されることが必須でもない感じ。

単純に、自分が自分の日々を見渡して「毎日こういうことをたくさんやっているなあ」と感じるときに、「自分はそういう人なんだ感」がゆるゆると発生して、だんだん育っていくような。

毎日「それ」をたくさんやっているのは、単純にそういう衝動があって。そして「それ」にそんなに時間を割けるようになるための経済面でのやりくりは、正直全然上手ではないのだけど。。。自分の中にある「それ」への衝動に対してフラットに正直になれたとき、なんだか大丈夫になりました。

大丈夫というと語弊があるかな。経済の面では大丈夫とは言いきれないのだけれど、でもなんとか今のところは、たくさんの幸いが重なって持ちこたえているというか。応援してくださるあったかい方々の存在もありがたく。。

先行きの見えない道を行く。。もとい、道でもないところをぽつぽつ歩いている感じです。

木工職人を目指しているわけでも、木工作家を目指しているわけでもなく(もとより目指せるはずもなく!)。かといって、”趣味”に邁進しているというふうにも全然思っていなくて。

一生活者として、木々や自然界のbeingsと近しくなりたい、そうしたみんなを一方的に排除したりコントロールしたりするのでなく、共にあるなかで暮らしたい、そういう初期衝動と一緒に居続けているというふうです。

頭で考えればこの状況はまずいのだろう思う。翻訳をフルタイムでやっていたときたときみたいに、自分は何者かの定義をはっきりさせて、自他にわかりやすく提示して、そこで生活の糧を得ていく方向に進まなくては、と思うのだけど。。。直感みたいなもの、それと、手を動かして感じ取り続けている何かが、「定義しないまま歩いて行く」ほうへと誘うので。。もう白旗を上げて、その声について行っている今です。

でも久しぶりにこうして「言葉を書く」ことに時間を割いてみて、やっぱりここにも定期的に戻ってこないとなんだ、かかせないみたいだ、と思いました。

読みたいと思ってくれる人が誰もいなくても、やっぱり書く。。そこにも白旗を上げて、ついて行くしかないみたいです。


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