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新聞白旗3号:気球で運ばれて、水の中の光へ

最近、心境の変化というか、なにかあれっ?という感じで今までと同じでなくなっている自分に驚くことがあります。

気球に乗っていて、風が頬に当たりもしない穏やかさの中で、いつのまにかすごく遠くまで運ばれてた、みたいな。(一度だけ気球に乗ったことがあるんですが、気球で風に運ばれているときって、風と一緒に動いているから、わりと無風に感じられる)。

頭上高くに、天の星のめぐりによって運ばれている気球があって、ずっと運ばれ続けているのかもしれないなあ、とちょっと思う。

先日は、物心ついて以来ずっと自分にとって「味が苦手でどうしても食べれないもの」だった牡蛎フライを、何だか知らないけどふいに「食べてみようかな」と思い、食べてみらた「あれ、おいしい」となって、それから急に牡蛎が食べられる人に自分がアップデートされました。

牡蛎を何十年ものあいだ避けてきたのが、ウソのよう。。。

一緒にいた相方は「今日は牡蛎フライ記念日だね」と喜んでくれました。

変化は徐々にやってくるものもあれば、急にやってくるものもある、というのはほんとうだな、と思いました。

こないだはひさしぶりに日帰り湯治をしに、朝からお気に入りの入浴施設に行ったのだけど、午前の太陽光が射しこむ露天の湯舟に浸かってたら、水面にゆらめく波紋が虹色のふちどりのついた光の模様になって、自分の全身に映りこんで。生涯ではじめて、自分の身体がふつうにきれいなものだと感じられた。というか、この身体に自分が宿っているという事実を、引き受けられた気がしました。

ずっと、どこか不浄なものだと感じてきて、自分の身体を引き受けきれてこなかったんだなあ。。いつも隠れていたいような感じがあって。

他者の目から見た自分の身体は、私自身を置き去りにして一人歩きしかねない「イメージ」をまとっていて。ずっと、そういう他者の視点からしか自分の身体を見てこれなかったのかもしれない。。

小学生のとき、人通りの少ない砂利道で見知らぬ男に馬乗りになられて「声を出したらぶっ殺す」とこぶしを振りかざされたことがありました。その後もいろいろ、あって、そのせいか、この身体さえなければと思うところがどうもありました。身体が消えてなくなることに夢を持っていたというか。

イサドラ・ダンカンの舞踊をずっと学んできたのも、イサドラがあるとき、音楽とほんとうにひとつになると身体が消える、と言っていた、その境地に果てしない魅力を感じていたから。そこにたどりつきたくて、踊り続けていたところがあります。

他者の視点に含まれていた、いろんな思惑や判断基準。それらがなぜかきれいにふっとんでいた先日の露天風呂でのフラットな視点は、なんというか、主観の極みで客観に反転したかのような視点でした。そうやって眺めた自分の身体は、虹色の光の波紋がゆらゆらするなかで、ただの生き物として、ふつうにきれいだった。

自分の身体の存在を、はじめて肯定できた、ような気がした。

とっても画期的でした。

なんでこんな変化が起きたんだろうかー、と考えると、最近わたしの心に触れてきていたさまざまなことが思い出されてきます。ご縁のあったものやことたち。

それらと関わっていく中で、招いてもらった変化だったのがわかる。感謝しかないです。。

自分ができる恩返しは、なんだろう。

今世界はいろんな意味で大きな変革期にあって、大変なことがたくさんたくさんあるけれど、優しさと思いやりと誠実さが報われる世界を、「取り引き」を越えた「共有」の世界を、勇気を出して思い描くことから始めていきたいな。

自分にできるささやかな貢献として。




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