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わたしたちはテクノロジーとウェルビーイングな関係を築けるか?【社内勉強会vol.2】

SNSやマーケティング、ゲームなどのテクノロジーは本来わたしたちの人生をより良くするために生まれたものです。しかし今日のテクノロジーと人間の関係を見ていると、テクノロジーがいかに私たちのアテンションを奪うかに偏重しており、主体性や人間らしさが損なわれているように感じられます。

そこを出発点として先日「わたしたちはテクノロジーとウェルビーイングな関係を築けるか?」というテーマで勉強会を開催しました。本noteでは勉強会の内容をレポート形式でお届けします。

株式会社Flourishing(フラーリシング)では「ウェルビーイング」というテーマをより多くの方と考え、つくりあうために、対話をメインにした勉強会を定期開催しています。勉強会はどなたでも自由に参加することができます。

参考書

今回の問いを考える上で『コンヴィヴィアル・テクノロジー 人間とテクノロジーが共に生きる社会へ』を参考にさせていただきました(以下、参考書と呼びます)。

コンヴィヴィアリティとはなにか

まず最初に参考書の表題にもある「コンヴィヴィアル(コンヴィヴィアリティ)」という言葉について整理しました。コンヴィヴィアリティとは哲学者のイヴァン・イリイチが提唱した概念で日本語では「自立共生的」などと訳されます。しかし参考書ではもう少し包括的な説明をしており、以下のような象徴的な話が出てきます。

他所の異質なもの、そしてある限られた時間、そして相反しているものが共存しえたとき、これがコンビビアルなものの要素である。

緒方 壽人. コンヴィヴィアル・テクノロジー 人間とテクノロジーが共に生きる社会へ


言わんとすることはただ自律するだけでも、他律されるだけでもないということです。そこで本勉強会ではコンヴィヴィアルを共生による「ちょうどよさ」と定義しました。

コンヴィヴィアルな道具

元々イリイチがコンヴィヴィアルを提唱した背景として行き過ぎた産業文明に対する批判があり、特に「道具」という言葉に着目しています。イリイチの言う道具にはハサミや車だけでなく病院や学校、政治など「人間が自ら作り出し、使っているもの」が含まれています。

イリイチの問いを端的にまとめると「人間が自ら作り出した道具に使われているのではないか?」ということです。もう少し具体的にすると「知らずしらずの内にわたしたちはその道具に支配され、主体性を奪われ、いつのまにか道具に使われているのではないか?」となります。

そしてコンヴィヴィアルな道具、人間にとってちょうどいい道具は「人間が主体性を保ちながらその生をいきいきと生きるための能力や創造性をエンパワーしてくれる」ものであるとされています。具体的な例としてイリイチは自転車を挙げています。自転車は人間の主体性を失わずにエンパワーしてくれます。それこそがコンヴィヴィアルな道具である、と彼は言っているわけです。

参考書の中で元Googleのプロダクトマネージャーでデザイン倫理学者をしているトリスタン・ハリスの言葉が引用されており、自転車の話と現代のテクノロジーが対比されています。

自転車の登場に怒る人はいない。
人間が自転車に乗り始めても社会を悪くしたとは言われない。
自転車が子どもとの関係を疎遠にして民主主義を破壊すると言う人はいない。
自転車とは無縁の話だ。
道具は静かに、ただ存在し、使われるのを待つ。道具じゃないものは要求をしてくる。
誘惑し、操り、何かを引き出そうとする。
道具としてのテクノロジーから、中毒と操作の技術に移行したんだ。
ソーシャルメディアは道具ではない。

緒方 壽人. コンヴィヴィアル・テクノロジー 人間とテクノロジーが共に生きる社会へ

イリイチが持っていた道具を使っているつもりで、実は使われているのではないか?という問いを発展させて、参考書では現代の道具であるテクノロジーがコンヴィヴィアルであるとはどのような状態か?を繰り返し問いかけてきます。

勉強会ではここまでの内容を踏まえて以下のような問いを参加者の皆さんで考えました。

あなたにとって「便利な」テクノロジーはどのようなものがありますか?それはなぜですか?

参加者からは以下のような声がありました。

  • Google Map:方向音痴だからないとどこにも行けない

  •  iPad:本やメモ帳、PCを持ち運ぶ必要がなくなった

  • 暖房機:寒がりだからなかったら生きていけない

  • イヤホン:外にいても一人になれる

  • Spotify:音楽がないと生きていけない

  • Zoom:遠隔地にいる人ともコミュニケーションを取れる

便利なものの中でも一つに絞ったことで特に「なくてはならないもの」が多く挙がりました。これらの「なくてはならないもの」からコンヴィヴィアルなテクノロジーを考えていきます。

コンヴィヴィアルなテクノロジー

イリイチはコンヴィヴィアルな道具、ちょうどいい道具を考えるいくつかのヒントを残しています。その一つが「2つの分水嶺」です。

2つの分水嶺

2つの分水嶺とはテクノロジーを含めた道具が「ちょうどいい」状態であるための閾値です。1つ目の分水嶺は人間の能力をエンパワーしてくれるのに十分な力を持つ段階です。2つ目の分水嶺は道具が力を持ちすぎて人間から主体性を奪ってしまう段階です。

1つ目の分水嶺を超えなければ道具としての力が不足しており、人間をエンパワーできません。しかし2つ目の分水嶺を越えると道具の力が過剰になり人間から主体性を奪ってしまうのです。この間にあるバランスを実現することこそが「ちょうどよさ」です。

道具によってそれぞれ適切な規模があり、バランスのポイントが異なります。テクノロジー自体に善悪、敵味方というものはありません。問うべきはそのテクノロジーの持つ力が不足しているのか、過剰なのかといったバランスについてです。

多元的なバランス

勉強会では対話を深める材料として「多元的なバランス」についても触れました。多元的なバランスは道具が力を持ちすぎて人間から主体性を奪う2つ目の分水嶺に達しているかどうかを判断するための6つの視点です。
(厳密には5つの視点+1つの兆候ですが簡潔にするため6つの視点としています)

多元的なバランスを持つ6つの視点は以下の通りになります。

生物学的退化:道具が人間から自然を遠ざけて関係を切り離し、自然の中で生きていく力を奪ってしまう。
根源的独占:他に代わる道具がなく、それなしではいられない依存状態にしてしまう。
過剰な計画:行き過ぎた効率化による計画で専門化や分業化が進み、創造性や主体性を奪ってしまう。
二極化:行き過ぎた効率化による計画で専門化や分業化が進み、創造性や主体性を奪ってしまう。
陳腐化:つくる側とつかう側、計画する側と計画される側という社会構造を生み出す。
フラストレーション:道具が第2の分水嶺に達した兆候として日常で感じるちょっとした違和感やフラストレーション。

参考書ではこれらの視点からコンヴィヴィアルなテクノロジーを考えるための問いを用意してくれました。それが以下の6つになります。

そのテクノロジーは、人間から自然環境の中で生きる力を奪っていないか?
そのテクノロジーは、他にかわるものがない独占をもたらし、人間を依存させていないか?
そのテクノロジーは、プログラム通りに人間を操作し、人間を思考停止させていないか?
そのテクノロジーは、操作する側とされる側という二極化と格差を生んでいないか?
そのテクノロジーは、すでにあるものの価値を過剰な速さでただ陳腐化させていないか?
そのテクノロジーに、わたしたちはフラストレーションや違和感を感じてはいないか?

緒方 壽人. コンヴィヴィアル・テクノロジー 人間とテクノロジーが共に生きる社会へ

これらを参考にして先程の「あなたにとってちょうどいいテクノロジー」が第2の分水嶺を越えていないか確認しました。

先程の「便利な」テクノロジーに対して以下のように問いかけたらどうなりますか?

参加者からは以下のような声がありました。

  • Google Map:Googleのアルゴリズムに依存しており思考停止する。知らない道での未知との遭遇など人生から冒険と失敗を奪ってしまう。

  • iPad:他に代わるものがなく依存状態。毎年のように新型が出て過剰な速度で陳腐化している。

  • 暖房機:自然環境の中で生きる力が低下している。それ以外は問題ない。

  • イヤホン:イヤホン難聴などもあり人間が本来持っている能力を低下させる一面もある。

  • :自動運転を除けばどれも問題なくコンヴィヴィアルな道具。

  • Zoom:コミュニケーションを取る時にしか使わないのでコンヴィヴィアルな道具。勉強会もこれによって成立している。

日常的に使っている便利な道具も冷静に問いかけてみることで、実は自分の主体性を奪っていた可能性に気がつくことができます。だからといって使わないのではなく一度立ち止まって、自分のウェルビーイングが損なわれていないか、適切な距離感はどこかを探ることが大切です。

わたしたちのコンヴィヴィアリティ

コンヴィヴィアルなテクノロジーを考えた時に避けられない問いとして、それは誰にとって「ちょうどいい」のか?という疑問があります。

対話の材料として参考書の中でも登場する「環世界」という言葉を紹介しました。生物学者のユクスキュルが提唱した「それぞれの生物はそれぞれの感覚や身体を通して異なる世界を生きている」とする概念です。これは人間にも当てはまります。つまり、一人ひとり異なる(環)世界を生きており「わたしたち」はわかりあえなさを抱えているのです。

その中でどのようにして「わたしたちのコンヴィヴィアリティ」を実現できるのか?
参考書の中に以下のような言葉があります。

言ってみれば、言葉はわかりあえない人間同士をつなぐための最も根元的なコンヴィヴィアリティのための道具なのだ。
そしていま、フィルターバブルのようなわかりあえなさが問題となっているのならば、わかりあえなさをつなぐための言葉の再発見や、言葉が意味する概念のアップデートが必要なのではないだろうか。

緒方 壽人. コンヴィヴィアル・テクノロジー 人間とテクノロジーが共に生きる社会へ

言葉をつくり合う、対話を通して模索する、そのプロセスこそコンヴィヴィアリティのために必要なのではないか。そんなメッセージを読み取ることができます。まさに本勉強会で目指している「対話を通して問いを深め、わたしたちの在り方を模索する」ものにぴったりと符合します。

そこで今回最後の問いとして以下のような設問を設けました。

「わたしたち」にとってコンヴィヴィアルなテクノロジーはどのような形をしていると思いますか?
または、どのような形であってほしいですか?

勉強会の参加者からは以下のような声がありました。

  • 使うか使わないか、どのように使うか選択できる

  • 人に合わせてカスタマイズできる

  • マイクラやNotionのように自分の好きなように使える

  • 職人の道具のように身体感覚にマッチしている

  • 数字のためにテクノロジー側が人間をハックしない

  • スマホやSNS自体はコンヴィヴィアルであり得たが設計に問題がある

これらのトピックから対話をしていく中で主体性、選択性、個別性の大切さが繰り返し語られました。これらはまさにウェルビーイングの核となる要素でもあります。ウェルビーイングについて詳しく知りたい方は以下のnoteをご参照ください。

今回はテクノロジーとのウェルビーイングな関係について考えるためにコンヴィヴィアルという言葉を持ち出しました。勉強会を通してこれらは密接に関係しており道具の在り方、人間と道具の関係を考える上で大変参考にになりました。

参考書の中でも著者が「答えは持っていない」と書いているように、答えがない中でどれだけ問いを温めて、お互いのちょうどよさを模索できるかが大切だと感じられる時間でした。

次回の勉強会は2月21日(月)19:00-20:00「わたしたちは自分とのコミュニケーション能力を回復できるか?」というテーマで開催します。参加は自由ですのでご興味のある方は以下のお申込みフォームか、代表のTwitterまでご連絡ください。

お申し込みフォームhttps://forms.gle/SNqBQ8QLBnE47uLP6
代表Twitter@SotaNakazawa

また株式会社FlourishingではWeFarmCareという自然体験を通したメンタルケアプログラムやウェルビーイングを高めるワークショップを提供しています。ご興味のある方はぜひこちらのサイトからお問合せください。

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