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なぜ、未だ未だ『プロヴォーク』か

文:Lucy Fleming-Brown 
プロヴォーク: PROVOKE 

Title designed by Shingo Yamada

 

ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのデビューに関して、「アルバムは3万枚しか売れなかったが、その3万人全員がバンドを始めた」という、必ず引用される一節がある。彼らは1000部印刷された『プロヴォーク』に比べたら、多くの人の手に渡ったが、その短命だった写真同人誌は同様にカルト的な地位や伝説的な影響力を獲得できた。常に発行遅延、すぐに解散、そして失敗作として参加者から否定された『プロヴォーク』は、今の大成功について1968年の若い写真家の反応を想像するのは興味深い。 『プロヴォーク』は、中平卓馬、森山大道、多木浩二、高梨豊など、著名な作家たちのキャリアをスタートさせただけではなく、彼らの世代全体の思想と作品に影響を及ぼしたといっても過言ではない。

『プロヴォーク』は、60年代を定義した政治に対する大衆参加の失敗を認めつつある転機に生まれた。新左翼の分裂は、日本の実験的な美術界が政治に直接的な関心を持つ態度から、より概念的な方向へ向かうことを予期していたが、『プロヴォーク』はその間の自己批判的な瞬間に誕生した。
その時代の暴力はベトナム戦争からプラハの春へ、テレビの生放送を通じて国内の観客に新たな臨場感をもって届けられたのである。このようなマスメディアの爆発の中に、『プロヴォーク』は、最初写真史を創造することを目的とした「写真100年 : 日本人による写真表現の歴史」という展覧会の編纂に参加した写真家を中心に結成された。明治維新以降の写真を幅広く調査したこのプロジェクトに参加したことで、彼らはその遺産がもたらす疑問について考えざるを得なくなった。そして、その歴史的な認識を各々の活動にどう結びつけていくかということを考えるようになった。


『プロヴォーク』といえば、しばしば模倣された「アレ・ブレ・ボケ」のスタイルとして知られたが、彼らの意志は表面の問題を飛び越えた、一種の批評である。1960年代の写真家の間で流行した正直か個人的な表現で事件やそれに対して盛り上がった抗議活動を記録する方法より、『プロヴォーク』は、包括的な構造の把握を試みた。話題とメデイアムという言動の一致を迫られることで、写真、言語と現実の間の根本的な接続に疑問を投げかけた。包有された写真のシリーズは、現状の曖昧な不快感を照らす感覚で、現在でも何か言葉で捉えられにくい体験を与え続ける。フェイクニュース、都市の孤独さ、物足りなさを埋めるためのツーリズムやショッピングのような対処法をカメラで暴く。非常に独特な(そしてだいぶ美化されてしまっている)歴史的文脈の産物でありつつ、視点の先鋭性が、時間が経つにつれてよりはっきりと見えるようになった。

このように書くと、ネガティブな印象を持たれるかもしれないが『プロヴォーク』は状況に対する非難ではなく、いわゆる現実に対する熱狂的な創造的抗議である。それぞれの写真家が独立したシリーズを提供し、学生運動のバリケードからホテルの部屋に渡り、主人公と世界との出会いを通して、私たちを一連のバラバラな見方や場所に連れていってくれる。劇的なコントラストのグラフィック力、グラビアの豊かな黒さ、ドラマチックな裁ち落とし、様々なビジュアルの跳躍によって、社会が進歩して行くとともに、目まぐるしい効果を生み出すことができたといえるだろう。

『プロヴォーク』のメンバーは、過去のプロパガンダと現代のマスメディアや広告における写真の共犯関係を自認し、ひいては今後自分たちが果たすべき責任に関して意識は高かった。彼らが発表した粗く、周りくどく、神秘的な断片は、そのページを指標的に理解しようとする読者に困難な経験を与える。その内在するフラストレーションの中でこそ『プロヴォーク』の写真は、写真が現実の窓である切れ目のない理解を中断し、写真に示される真実の幻想性をむき出しにすることで、読者の疑問を投げかける視点を後押しするのである。写真が私たちの日常生活のあるゆる場面に浸透し、ますます基本的で強烈になればなるほど、『プロヴォーク』の集団的な意識への呼びかけはより先見性が現れる。この意識に抵抗する写真は、判読しにくさで、現在のバーチャル化する世界に対して潜在意識が生み出す視覚的な速記やヒューリスティックを遮るのである。


1996年に著名な評論家の西井一夫氏は「なぜ、未だ「Provoke」か」という本を出版し、『プロヴォーク』がこのように人を魅了し、インスピレーションを与える不屈の力を問い直した。それから、約30年の後、また雑誌のページに描かれた世界が視覚的に異なっても、本質的な感情的に共鳴するミレニアルにとって、『プロヴォーク』が何を意味するかについてもう一冊本が書ける。写真による試みは、インターネットのエコー・チェンバーの中からは、ますます届きにくくなる、より広い現実につなぐための誠実な行動なのである。

https://www.flotsambooks.com/SHOP/PH04075.html

執筆者
Lucy Fleming-Brown
1996年生まれ 東京藝術大学大学院生
写真史を研究して、たまたまにキュレーションもやります。
Contact: konbiniqueen@gmail.com
IG: @konbiniqueen


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