マザー

マザーテレサの母

久〜しぶりにnoteをアップしてみようかなあと思います。

昨日、マザー・テレサの言葉を伝え続けている片柳弘史神父様の講演会に行く機会がありました(上の写真のマザーは、片柳神父撮影のものを見つけて、ちゃっかりいただいたものです)。

片柳神父は埼玉の農家のお生まれでキリスト教とはぜんぜん関係のないお家に育ったのに、何か人の役に立てる仕事に就きたいと悩まれて、マザーのもとを訪ね、マザー直々に神父になるよう勧めらてなった方(*^_^*) それだけに、たくさんのマザーに関する生きた情報を聴くことができました。

大学時代、子どものころに伝記で読んだマザーがまだ生きていると知って、「すごい!」と思ってすぐにリュックサック一つ背負ってインドまで会いに行かれたこと、アポなしで訪ねた事務所で待っていると現れた、随分歳を取って背中の曲がった、白い顔をしたシスターが、「どっかで見た方だなあ」と思ったらマザーご本人で「とりあえずサインしてもらって一緒に写真を撮ってもらった」という、マザーも飾らなければ、片柳神父も飾らない、そのお人柄が伝わって来る、心がほっこりとさせられるお話(*^_^*) 

その中で何より、初めて知ったのは、当たり前だけれど、マザーにも母がいたこと!というより、マザーがそのお母様の、1972年に92歳で亡くなったドラナさんの、まさに生き写しだったということ(マザーのお兄様のラザロさんがそう証言されているそうです)!!
マザーが「貧しい人たちを助けたい」と決意したのは生まれ故郷の現マケドニアのスコピエ(Skopje)でまだ12歳だったとき。マザーの母、ドラナさんはスコピエで熱心に教会に通い、貧しい人への奉仕を全力でしていた、子どもたちに見捨てられ一人ぼっちでアルコール中毒になって皮膚病に苦しみ‥‥というおばあさんのことも、子どもを可愛がるように可愛がって愛を伝えていたそうです。その姿を見て育ったマザーはその母の考え、「貧しい、小さな人たちにしたことは神様にしたこと。大事なのは神様を悲しませないこと」という信念を実践したということを今日、初めて知りました。
私にとっても、スコピエの街は5年前にちらりと寄ったことがあり(そのときは、そこがマザーの生まれ故郷であるとも知らないで‥)、とても印象的な街だったこともあって、なんだかドラナさんとアグネス(小さなマザー)の光景が浮かんでくるようで、あらためてマザーテレサという「日常生活の中の聖人」が存在していたこと(アルバニア人の中で何代にもわたって引き継がれ、用意されてきたこと)のすごさが心に染み渡りました。

写真は5年前に行ったスコピエ。町の広場には今にも馬のいななきが聞こえてきそうな迫力のある銅像の数々があり、遠く山の上には大きな十字架があって、小さいけれど歴史を感じさせる町でした。マザーは、「わたしの両親はアルバニア人です。わたしは、そのころまだユーゴスラビアではなく、そして今はもうユーゴスラビアではなくなったところで生まれました」と言われたそう。この言葉をもって、片柳神父さまは「ではマザーはどこの国に生まれたでしょうか?」と聞かれて誰も答える人がいなかったのだけれど、そう、なんとマザーが生まれたころ、ここスコピエはオスマントルコ帝国下にあったですね。民族、宗教をめぐる紛争が絶えなかった地であるからこそ、ここスコピエは様々な文化の融合が感じられる町でもありました。

ドラナさんが身をもってマザーに伝えたいちばん大切なことは、「貧しい人たちが求めているのは食事でも薬でもない。いちばん求めているのは愛なのよ」ということ。。あの皮膚病のおばあさんは食べ物を届け、薬を塗ってあげただけでは喜んでくれなかったでしょう?と。

マザーとドラナさんはマザーがインドへと旅立った18歳の別れ以来、一度も会うことなく、そのまま本当の別れになってしまったそうですが。。

相手の話を一言も漏らさず、黙って聴いているだけなんだけれど、その沈黙がどんな言葉よりも愛を語る。手をしっかりと握りながらいてくれる。その温もりのなんと雄弁なことか。その人がその人である限り寄り添い続ける、痛みを感じるまで愛すること。

どれも簡単なようでわたしにはとても難しいこと。。

でも昨日はマザーの話を、マザーの母の話を聴けて本当に良かった。その思いから、最近noteをアップするにはとても疲れ過ぎているわたしですが、そんなこと言わずに久々アップしてみました^^ ではでは^^

#マザー・テレサ  #片柳弘史神父 #マザーの母、ドラナさん  #アルバニア人 #スコピエ #ユーゴスラビア #オスマントルコ

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