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病氣とPOF理論 ②思い出

今日は、ずっと、患者ブログを徘徊していた。

ずっと身体の底から湧き上がってくる、あらゆる感情を昇華し続けた。

何人もの方が、命を終え、配偶者が葬儀のお知らせをし、本人が伝えきれなかった最後の様子を書くことで、どこにもやり場のない氣持ちと自分自身とを切り離す作業をしている姿を観た。

また、読者は、それを読むことで「どう命を味わうのか?」を自分事として考えている様子がうかがえた。読んでいるだけでその世界にすっぽりと入ることができる。

わたしもその一人だ。

自分の命をどう味わうのか?今しかできないこと、今やっておきたいことを最大に体験しておきたいと思った。自分が自分の今を選ぶことしかできない。


まだまだ若く、乳幼児のお子さんをお持ちの方もいらっしゃった。わたしも職場以外で、自然育児のサークルで出会ったママ友の大腸がん発覚から亡くなるまでの時間と関わっている。子どもは、長男・次男が同級生。まだ長男が小学校に上がる前のことだった。もう8年もたっている。ママ友は38歳、わたしは32歳だった。一生懸命、子どもが子どもらしく育つサポートをしていた。

誰にも本当の気持ちを出すことはなかったのではと思う。強い痛みにも耐えていたことを知る。


ご両親が、肺がんと白血病でお2人とも亡くなっていたので、生活には氣をつけていた。憧れるようなナチュラルな暮らしを、ナチュラルにしていた。

ずっと氣をつけていたのに、自分も癌だと知ったときの衝撃はいかほどだっただろう。

珍しく、「家に行ってもよいか?」と突然連絡が来て、「末期がんだった。回復を祈ってもらおうと思って。」と明るく言った。当時わたしは何もできなかったけれど「ひろみさんの顔をみたら安心した。旦那さんはいつもここに帰ってこれていいな。」とそう言ってくれた。


亡くなる数週間前、ちょうど、うちの三男の受診も重なったから、何か買い物があれば病室に届けるよと病室に行ったとき、かなり痩せた身体を起こし、きれいに髪を整え、待っていてくれた。他県で医師をしている妹も来ていた。わたしの面会で、部屋を出ていった。

ホスピスの話が本人から出たことは覚えているけれど、その他は忘れてしまった。疼痛コントロールがうまくいっていないということ、これからの時間はどんな感じなのかを知りたかったことなどが「ホスピス」という言葉として出てきたのかもしれない。

帰りに長い握手をした。


まだそのママ友の声が聴こえる。

旦那さんは、ママ友の厳しい指導もあって、ぬか漬けもパン作りもひとりでできるようになっていた。癌がわかる直前には、家を改築し、ママと子どもたちが集まれる場をつくり、回復したら夫婦でカフェをしたいと大きな夢を持っていた。

病院の個室だったけれど、旦那さんと二人で子どもなしで過ごせて、ホテル宿泊している気分を味わったよと教えてくれた。

「こんな幸せな時間はない」という強い幸せを、今までで一番に味わっていた数週間だったようだった。


今まで喧嘩ばかり。お祭りの屋台の健康に悪そうなものを子どもに食べさせて、飛び蹴りをしたと本氣で怒ってた。

でも癌をきっかけに、旦那さんときちんとコミュニケーションをとることができ、ママ友のやりたいことを代わりにできるくらいの技術を磨き、そんな風に寄り添ってもらえている体感が、人生で最高な幸せを体験することを叶えたようにも見えた。

発見から1年ちょっとだった。

記憶は確かなものではない。わたしが大事だとしたところ以外は違うかもしれない。


この出来事から、本当にいろいろなことを受け取らせてもらった。

最高な時間は、いつからでも叶えていい。本当の気持ちを表現すること。やりたいことを叶えることはいつから取り組んでもいい。


今日は、いろいろな記事を読ませてもらって、いろいろなリアル映像が思い出されていました。今わたしなら何ができるだろうか?それとともに、今わたしがここで何を叶えたいだろうか?

過去のクリアリングの時間を過ごしていました。読めば読むほど、涙が流れ続けた。大きな絶望と大きな可能性。世界観を押し付けることはできない。けれど、何かしらの可能性が広がるのではないか?


大きな大きな衝動と、自分をどう持っていけばよいのかの未知が、大きな山となってわたしの目の前にそびえたってる。


湧き上がるたくさんの思いと感情をただただトンネルとなり、愛で響かせていく時間を、そして、恐れフィールドでの創造ではなく、愛フィールドでの創造へ。その自己創造の位置にその都度戻ってくることを繰り返しながら、次の立ち上がりを受け容れます。

【役割なく愛の響きで交流する】と決めたところから、昇華されていくエネルギーはこんな流れを創った。


つづく

#POF理論

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