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否定されることが怖かった話と、自己開示とかアドバイスをもらうとか

私はとにかく自己開示が苦手でした。

例えば…
どんな習い事をしているとか、どんな友達と遊んでいて休日は何をしていて、恋をしているとかしていないとか、推しが誰で、今何を考えているのかとか。

ミステリアスとか言われちゃうくらい、自分のことを言うのが苦手だった。
今日の夜ごはんすら言いたくなかった。

本当に何も言いたくなかったの。
いろんなことがあったから、いつの間にか責められること否定されることを極端に怖がるようになっていた。
無意識に「攻撃される」と思っているから、何か突っ込まれる隙を1ミリたりとも見せたくなかった。



でも、昨年末から働いている職場のみんなは、すごく自分と他人の境界線がはっきりしていて。
どの人もお話好きでいろいろ雑談を振ってくるのに、「みんな違ってみんないい」を体現している感じ。

自分と違う考え方、キャラクター、趣味嗜好、そういうものを「へぇ〜」って、面白がって尊重している。
そんなの変、とか、あの人イヤ、とか、そんなのが全然ない。
ただひたすら、「私は私」「あなたはあなた」っていう感じ。
でも、興味を持ってないのともまた違う。

きっとそれが本来あるべき「自分と他人の尊重」なんだと思うし、文字にしちゃうと「うんうん、いい雰囲気だね〜」って簡単に終わっちゃう気がするけど、私にとってはここまでしっかり他人を他人として切り分けている人々に出会ったのは初めてのことだった。


だからちょっとずつ、「今こんなことをして過ごしている」「私はこれが好き」そんなことも言えるようになってきて、しまいには「こんなことで今迷っていて、どう思います?」って聞けるようになった。

なんてことない雑談の範囲だけど、私にとってはなかなか大きな一歩だったし、当たり前のようにみんな「こうしたら?」「こういうのもありかも!」ってアドバイスをくれて、でもそれを実行するかどうかももちろんもう、気にしてない感じで。
「あなたの決めることだから」っていう感じ。
その場のおしゃべりを楽しんで、それで終わり。

その気軽さが、こんなにも心地いいなんて。

その心地よさに気がついて始めて、自分がどれだけ周りを怖がるようになってしまっていたか実感したし、また周りの人を、自分自身を、信頼していくリハビリを受けているみたいな気分になった。


捨てる神あれば拾う神あり、というか、本当に……いつも私は、この世界に、いろんな人に、育てられているな、って。


人に傷ついても、必ず人に救われる。
心地いいと思える居場所が、自分にとっての心地いい距離感が、きっとある。
それを噛み締めているし、もうこの先、怖がらないで人と関わっていきたい。
私もみんなみたいな関わり方を身につけたい。

そんなふうに思う今日この頃です。



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